マツダ交通の見たまま

主に大阪シティバスの小ネタや歴史をディープに掘り下げる考察系ブログです。

大阪市営バスにかつて存在した『グリーンエース』とは?

こんにちは😃

ところで都市新バスシステム』はご存知ですか?

都市新バスシステムとは、都市部においての幹線道路を走る主要なバス路線の利便性を向上させるために従来のバスの運行システムを見直して再整備させることです。

具体的には、道路混雑や停留所前での路駐を抑制するために専用レーンを設置することや「バスがいつ来るのか?」をバス停が利用者に知らせるバスロケーションシステムの導入などが挙げられます。

東京都では都営バスや東急バス、愛知県では名古屋市営バス名鉄バスなどがこのシステムを導入していました。

f:id:Matsuda_KOTU:20211215065159j:image

大阪市においても大阪市営バス(現:大阪シティバス)が『グリーンエース』としてこのシステムを導入し、主要なバス路線の利便性向上を図っていました。今回はこの『グリーンエース』はどういうものであったのかを紹介していきたいと思います。

グリーンエース導入までの背景

グリーンエースⅠの導入まで

グリーンエース導入直前(1985年)には乗客数が昭和39年の119万人の約3分の1にまで減少していました。その要因としては地下鉄などの路線開業により乗客数減ったということもありますが、自動車が急増したことで幹線道路などで混雑を起こしバスの定時運行が厳しく、しきりに遅れては交通輸送としての信頼を損なってしまったということで本来のバスとしての機能を発揮することが出来なかったことにつながります。

このため、バス路線の利便性を上げるために導入したのが『グリーンエースⅠ』という都市新バスシステムです。

一般的な施策としては、

  • バス専用レーンや優先信号機でスピードアップを図る
  • 冷暖房装置の都市型車両の導入で快適な乗り物にする
  • バスロケーションシステムの導入でバスの接近情報を知らせるとともに運行管理を行う
  • モダンなシェルターを設置し、バス停留所のイメージを一新する

これらを一体化させた施策で再び信頼される市バスとして乗客数増を図るというものでした。

 

グリーンエースは、グリーンの持つ「さわやかな暖かさ(市バスのこころ)」であり、今回の都市新バスシステム導入が復権のエースになるようにとの願いをこめて名付けられました。

第1次の都市新バスシステム導入は1986年(昭和61年)4月1日に主に今里筋を通る杭全(くまた)~守口車庫前間に導入されました。

f:id:Matsuda_KOTU:20211215072839j:image[地下鉄緑橋停留所に止まる幹線35号系統]

f:id:Matsuda_KOTU:20211215073118j:image

[方向幕(前)]

f:id:Matsuda_KOTU:20211215073219j:image

[方向幕(横)]

グリーンエース導入系統は幹線35号系統(守口車庫前~杭全)、幹線35A号系統(守口車庫前~地下鉄今里)、幹線85号系統(なんば~杭全)に導入されました。幹線85号系統ではグリーンエース区間に入ると自動的に上の背景がの幕に変わり、区間外になると一般バス路線で走る背景が白い幕になる仕様となっていました。

そのほか設備面では杭全~今市(いまいち)間に優先信号、地下鉄今里~杭全間に専用レーンが設置。グリーンエース内にある停留所はバスロケ化が進み〝バスを待つイライラを少しでも無くすため〟に接近表示器の付いた電照式のバス停のものに取り替えられました。(ただし、バスロケーションシステム導入はこれが初めてではない)

f:id:Matsuda_KOTU:20211216065953j:image[ポール型の電照式標柱に付く接近表示器]

f:id:Matsuda_KOTU:20211216070034j:image

[シェルター型のバス停に付く接近表示器(現在撤去)]

先程の緑橋に止まるバス車両(いすゞキュービック)には冷・暖房装置が付いてあり、低床かつ広幅扉が採用されています。

 

グリーンエースⅡの導入

f:id:Matsuda_KOTU:20211216071714j:image

1986年に導入されたグリーンエースⅠはバスのスピードアップと定時運行が図れたことにより1988年(昭和63年)4月27日に大正区内でもグリーンエースⅡとして導入されることになりました。範囲は地下鉄桜川~大運橋・鶴町四丁目間で大正橋~大運橋間を走る大正通は総合交通対策として市バスが路駐車両の影響を受けずスムーズに運行できるように車線構成の見直しを行い、朝ラッシュ時間帯のみだったバス専用レーンが朝5時~深夜1時までと大幅に延長しました。これにより平日の※大正橋発鶴町四丁目方面行きの終発時刻が23時25分より23時59分へ延長することができました。(この見直しで大正橋の折り返しも可能になる)

 

※この他、幹臨71A号系統(戎橋~大正橋経由・鶴町四丁目)の戎橋停留所終発時刻は、23時48分であった。

 

さらに、グリーンエースⅠと同様に風防付きのシェルター型バス停が設置されバス接近表示器も取り付けられました。

f:id:Matsuda_KOTU:20211216072700j:image[シェルター型バス停の接近表示器]

実施系統は幹線70号系統(なんば~鶴町四丁目)、幹線70A号系統(大正橋~西船町)、幹線76号系統(地下鉄住之江公園~九条車庫前)、幹線臨98号系統(新千歳~なんば)などに導入されていました。

また、1992年(平成4年)3月には、なんば~地下鉄桜川間にも都市新バスシステムの実施範囲を広げました。

 

グリーンエース廃止とその後…

f:id:Matsuda_KOTU:20211216131642j:image

2000年(平成12年)5月20日の九条営業所廃止時にはグリーンエースの緑幕を白幕に統合させたため、緑幕及びグリーンエースの愛称は廃止になりました。

しかし、グリーンエース時代の名残は今もなお残り続けています。大正通のバス専用レーンは現在も残存のほか、特にシェルター型のバス停は主に大正通沿いの停留所で未だ健在です。

f:id:Matsuda_KOTU:20211216132024j:image[大正橋停留所]

f:id:Matsuda_KOTU:20211216132122j:image[鴫野駅前停留所(大阪市営バス時代に撮影、なお大阪シティバス移管後も残存)]

また、大正通沿いにある停留所にはバス接近表示器も当時と型は違いますが、これも残っています。

f:id:Matsuda_KOTU:20211216132317j:image[鶴町四丁目のバス接近表示器(大阪市営バス時代に撮影、なお大阪シティバス移管後も残存)]

 

つまりグリーンエースは路線の種別としては、一般バス路線と比べて主要な幹線道路でのバス路線が交通事情により脅かされていたことから、利便性向上のために優先して対策が行われていた区間ということです。大阪シティバスの路線図には大正区付近を見ると70や71、91号系統など多くの線が連なった部分があり、大正駅(大正橋停留所)以南からは小林・鶴町地区と地下鉄が通らない大正通を走るバス路線が、このグリーンエースⅡという道路の見直しがあったことで利便性が上がり、今もなお残り続けているのでしょう。

そして、今も何らかの形で残り続けています。

 

では👋

【大阪シティバス路線の歴史01】56号系統

こんにちは😃

今回からは新企画…

それも、『大阪シティバス路線の歴史を探る』です。まずは第1回として56号系統についてスポットライトを当てていきたいと思います。

 

56号系統について

f:id:Matsuda_KOTU:20211126215045j:image[大阪市営バス時代]

f:id:Matsuda_KOTU:20211126073512j:image[2021年現在の経路図、停留所は経由地のみ表記(以下同じ)]

 

56号系統(大阪駅前~酉島車庫前)は、大阪駅を南下し梅田新道より国道二号線に入って阪神とJRの高架辺りで離れ、そこから大阪メトロ千日前線玉川駅大阪環状線ゆめ咲線の西九条駅などを経て此花区の島屋までを西に進み、そこから北上し大阪シティバス酉島営業所のある酉島車庫に至る路線です。復路に至っては桜橋より北上して大阪駅前に入るため、梅田新道は通りません。

では、初代の56号系統から現在の56号系統までの移り変わりを見ていきましょう。

f:id:Matsuda_KOTU:20211125235804j:image[1955年春頃・黒丸(●)は運賃区数境界停留所※1]

56号系統は1954年12月11日に新設。戦後の此花区に初めてバス路線が走った当時の43号系統(大阪駅前~福町循環)に次いで新設された路線であり、酉島地区にバスが走ったのも1938年5月以来のことです。現在の路線と比べても差程違いはありません。しかし、見知らぬ停留所がポツポツとありますので、これは後の路線図にて紹介していきます。☺️

 

※1 運賃区数境界停留所とは、当時の大阪市営バスがバス運賃を均一制でなく区間制(原則1区・2区)で取っていたため、このように運賃区間の境界を停留所に設けていました。

f:id:Matsuda_KOTU:20211126001026j:image[1955年秋頃]

そして1年もしないうちに大阪駅北口より天六へと延長。今では天六止まりなど無いですが、かつては天六操車場が存在したので天六の発着もおかしい話ではありませんでした。

f:id:Matsuda_KOTU:20211126002153j:image[1970年頃]

1970年に入ると酉島地区に動きがあり、酉島町~此花工高前(→此花総合高校前を経て現在は酉島小学校)を循環する経路に変わりました。この経路の途中に酉島住宅前と酉島町五丁目(現:酉島五丁目)があり、おそらく折り返し含めて2度停車(停車箇所は異なる)していたのかと思われます。

なお、この後にバス運賃は距離区間制から現在の均一制に変更されました。

f:id:Matsuda_KOTU:20211126081437j:image[1978年頃]

1976年にはゾーンバス(幹線・支線)制度エリアを拡大させるために各地に路線を新設する動きがあり、56号系統にも56支号系統(後に支線56号系統)が1976年7月に新設。酉島から少し西に延びました。1977年には臨56号系統(野田阪神前~酉島)が新設されていましたが、1978~79年の間に廃止されました。

f:id:Matsuda_KOTU:20211126090731j:image[1979年8月頃]

1979年7月22日により大規模なダイヤ改正を実施、既存の56号系統は幹線56号系統に改番し、一部は幹線59号系統(大阪駅前~西九条・伝法経由 酉島)として新設し、分割されました。この幹線59号系統は現在の59号系統の原型ですね。支線56号系統は特に変わりはありません。

また、隠れた路線として特56号系統(常吉二丁目→西九条)が存在していました。

f:id:Matsuda_KOTU:20211126091936j:image[1989年秋頃]

支線56号系統は北港ヨットハーバーへ延長、後に幹線56号系統も野田阪神前から地下鉄玉川までを吉野二丁目に迂回する経路へ変更されました。

f:id:Matsuda_KOTU:20211126093307j:image[1994年4月頃、黒丸(●)は幹線・支線境界停留所]

1994年春頃には幹線56号系統が廃止(路線図記載無し)、56号系統自体が野田阪神前に来ることが無くなってしまいました。これらを見てみると大阪駅前、野田阪神前、西九条と徐々に西へ短縮されていることが分かります。

f:id:Matsuda_KOTU:20211126093758j:image[1994年12月頃]

1994年12月に春日出営業所が廃止(酉島営業所に移転)されたことに伴い、此花区エリアで大規模なダイヤ改正が行われました。この際に支線56号系統は支線59号系統に改番されることになります。

f:id:Matsuda_KOTU:20211126094121j:image[2000年頃]

2000年4月頃に北港ヨットハーバーから常吉大橋を渡って舞洲、さらに此花大橋を渡って桜島駅に延長され、2度も大きな橋を渡る路線に変わりました。なお、酉島住宅前から此花区役所にかけては島屋経由から伝法経由に変更されました。

f:id:Matsuda_KOTU:20211126114341j:image[2004年頃]

2001年にユニバーサル・スタジオ・ジャパンが開園したことに伴って56号系統も桜島駅前から延長されました。その際に酉島住宅~此花区役所間は再び島屋経由に戻されることになりました。そして、2002年1月27日にゾーンバス制度が廃止。幹線・支線という区分けは無くなり特56号系統は56号系統に改番されました。

さらに、幹線79号系統(酉島車庫前~大阪駅前)が56A号系統として改番されることになります。また、入出庫路線であった56B号系統(酉島車庫前~西九条)も2004年にはありましたが、どの時期にあったのかは不明です。

f:id:Matsuda_KOTU:20211126113756j:image[2021年現在]

56号系統(ユニバーサル・スタジオ・ジャパン~西九条)が2008年3月で廃止され、常吉大橋を通るバス路線は無くなりました。59Bについても2010年に廃止、56Aは(新)56号系統に改番し、現在に至ります。

つまり…現在の56号系統は、元々のルーツが79号系統だったということになりますね~😃

 

まとめ~

初めての路線変遷紹介でありましたが、いかがでしたでしょうか?

56号系統は特に1990年から2000年にかけて経路変更が際立っていたように思います。

大阪シティバス路線の歴史』は今後も続けていきますので、ぜひご期待ください😊

 

では👋

タウンカードとレインボーカード

こんにちは😃

皆さまが鉄道を利用する場合では、大体はICカードを使われる事が多いかと思います。関東ではSuicaPASMO(どちらもモバイル含め)、名古屋ではmanacaTOICA、近畿ではICOCAPiTaPaでしょう。

しかし、時をさかのぼってみればICカードがない頃だと、関東であればパスネット(PASMO普及に伴い廃止)、近畿であればスルッとKANSAIの磁気カード(ラガールカードパストラルカード等)が主流でした。

また大阪市交通局ではレインボーカード、そしてそのまた昔に普及していたタウンカードというものが存在していました。

今回は2つのカードを紹介しつつ、その違いなども見ていきます。

 

タウンカード(Town Card)

f:id:Matsuda_KOTU:20211117211517j:image

タウンカードとは、大阪市交通局が1988年3月1日に発売したプリペイド(前払い)式磁気カードのことです。これは、切符売り場の発券機で現金を使わずにカードを投入して切符を購入するという革新的なものでした。類似するものだと、テレホンカード(公衆電話に現金を入れず、カードを差し込むと通話ができる)のような存在でしょうか。

f:id:Matsuda_KOTU:20211117202958j:image[タウンカードのご利用方法。後には精算機での乗り越し時にも利用できるようになる]

元々は国鉄が発売したオレンジカードから始まり、関西圏の私鉄では近鉄が1986年10月にパールカードとして発売していました。

なお、切符売り場で買えるタウンカードは地下鉄マークと10系車両を組み合わせたデザインのみの発売で、1000円・2000円・3000円券のみの販売でした。

f:id:Matsuda_KOTU:20211117204758j:image[券売機で発行されるタウンカード]

それ以外のデザインであれば、定期券発売所やカード取扱い券売機センター付近の売店にて発売されており、こちらは上記の金額券以外に500円券が発売されていました。

しかし、1996年2月1日にレインボーカードが発売されることに伴って前日の1月31日に販売終了となってしまいました。(終了時にはそのまま利用できる上、券売機にて同額のレインボーカードと交換することができた。[現在は不可])

f:id:Matsuda_KOTU:20211117205520j:image[記念タウンカード]

f:id:Matsuda_KOTU:20211117210012j:image[再発行タウンカード(券売機発売)]

 

 

レインボーカード(Rainbow Card)

f:id:Matsuda_KOTU:20211117220402j:image

レインボーカードとは大阪市交通局が「スルッとKANSAI」加盟に伴い発売されたプリペイド式カードです。

こちらは従来のタウンカード同等の利用ができるほか改札機にそのまま通して精算するスタイルで、まさに現在のICカードさながらのモノでした。当初は1996年2月1日に発売開始、ただ発売当初はスルッとKANSAIのシステムが未導入だったため〝タウンカードと同様に券売機で切符すること〟しかできず、本格的にカードとしての機能が使えたのは1ヶ月後の3月20日のことでした。

f:id:Matsuda_KOTU:20211117221840j:imagef:id:Matsuda_KOTU:20211117222457j:image[レインボーカードのご利用方法]

大人: 1000円・2000円・3000円・5000円券

小児: 500円・1000円券

f:id:Matsuda_KOTU:20211117224239j:image[券売機以外で購入できる記念レインボーカード]

後にはポストペイ(後払い)式ICカードPiTaPaが登場した傍らでも継続して発売していたものの、2008年に偽造レインボーカード(だいどう豊里の豊が豐になっていた等)使用問題があったものの対策を講じる形になりました。

f:id:Matsuda_KOTU:20211117224317j:image[対策後のレインボーカード(背景に局章(ロゴ)が付いている)]

結果的にはPiTaPaに1本化した形で2017年3月31日に発売終了、翌年の1月末に利用終了しました。

 

2つのカードの違いとは?

先述した通り、タウンカードはあくまで切符売り場で切符を購入するためのカードです。

レインボーカードはこれのみならず、切符に変えることなく改札機に通して乗降することのできるカードです。

これらの違いは主に次の通りです。

 

  • タウンカード

1.バス車内での精算時に使えるか? 

→使えない

2.カード再発行までの印字回数

30回まで(超えると乗り越し等での精算機で使用できず、券売機にて再発行となる)

3.使用中での払い戻し(利用可能当時)

→できない

4.印字の表示場所

表面

5.他社線利用

→切符を購入すれば可能

 

  • レインボーカード

1.バス車内での精算時に使えるか? 

使える

2.カード再発行までの印字回数

21回まで

3.使用中での払い戻し(利用可能当時)

→できない(ただし、間違えて入口の改札機を通してしまった場合は記録を取り消す事は可能)

4.印字の表示場所

裏面

5.他社線利用

スルッとKANSAIの利用区間であれば、改札機を通して乗り降り可

 

終わりに~

タウンカードやレインボーカードではこれほどの違いがあるのです。😌

また当時ではどちらもデザインをオーダーメイド出来たりメッセージを追加できたりとプレゼント用として購入することもできたようです。

それに記念用のカード(上記に挙げたもの)も多く発売され、当時のバスまつりなどにおいてはキットとして出していた事もあって収集家にとってはさぞ嬉しかったことでしょうね笑☺️

とはいえ、このような磁気カードがあったからこそPiTaPaなどのICカードに進化し便利になりつつある中、今後はどのような決済方法が登場するのか気になるばかりです。

 

では👋

大阪市営バスの電気バス、あおぞら号。

こんにちは😃

最近は水素バスやらバイオディーゼルバスなど色んな環境に配慮したバスが増えました。特に電気バスに至ってはBYD社のがよく見かけます。

大阪シティバスには未だ海外製の電気バスは導入されていないのですが、市営バス時代にはかつて電気バスが運行されていました。

その名もあおぞら号

f:id:Matsuda_KOTU:20210924165149j:image[大阪22あ *477(1972年式) いすゞEU05]

 

大阪市営バスでは1972年4月1日にこの電気バスを2台導入しました。あくまで実用化試験という名目であり、車番は大阪22あ *476大阪22あ *477でどちらもシャーシがいすゞ、ボディは川崎重工業(前側のタイヤすぐ後ろにエンブレムがある)で、九条営業所に導入されました。

 

大阪市営バスの電気バスはこのあおぞら号が初めてではなく、既に戦前の頃から戦時中のガソリン規制の影響を受けて代燃車を確保するために1937年8月に導入され、最盛期には青バス(大阪乗合自動車)から移譲されたバスも含め、60台ほどが運行していました。しかし、終戦後にはガソリン車が復活し、新たにディーゼル車が導入されたことで1951年には全廃されました。

f:id:Matsuda_KOTU:20210924174442j:image[当時の電気バス]

なぜ製造されたのか?

電気バスの導入に踏みきる2年前の1970年頃には道路を走る自動車が増加し騒音や排出ガスによる大気汚染が社会問題化しました。しかし、大阪万博から脚光を浴びた電気自動車の注目が高まり、1971年通商産業省(現:経済産業省)が電気自動車を大型プロジェクトとして取り上げられるほど。

その背景があって電気バスを復活させる動きがありました。

f:id:Matsuda_KOTU:20210924170313j:image[バス全長9.2m、定員70名]

車両には御堂筋線10系などでも採用されたサイリスタ・チョッパ制御を採用し滑らかな運転ができる上、電力消費を少なくする努力もされています。

 

実際はどうだったのか?

九条営業所に配置後は主に88号系統(大阪駅前~大阪港)などで運行し、当時は再開発された中では初めてとなる大型電気バスとなったため内外からの見学者が相次ぎ電気バスに対しての関心が高まりました。

1974年10月には九条営業所の自動車車両工場の移設の絡みで2台とも春日出営業所に転属。79号系統(大阪駅前~桜島駅前)などの路線で運行していましたが、1982年3月にバスの耐用年数切れ全て廃車になりました。実用試験結果では総走行距離が50万km(地球約12周以上)を超えるという、当時の日本国内においては最も長い電気自動車企画の実績でしたが、本格的な採用には至りませんでした。

この電気バスの騒音性は無く、また排気ガスも出ない。乗り心地も良いといった三拍子が揃う反面、バッテリーの寿命で行動距離が制限されたこと、一般のバスと比べて経費が約5倍と高すぎるため限界があったものと思われます。

京都市交通局も洛西営業所が開設された1979年に三菱(ME460型)の電気バスを6台導入し、洛西エリアの団地輸送にあたっていましたが結局は坂道の多いためバッテリーの消耗が激しく、常時満員でも採算が取れないほどの維持費の高さで1987年には全車廃車され、『あおぞら号』よりも短い命でした。当時は電気バスも持つだけでこれだけの苦悩があったのですね。😌

電気バス引退から約40年。大阪シティバスも電気バスを導入することがあるのでしょうか?

 

では👋

大阪シティバスのバス停あれこれ記録帳

こんにちは😃

今回はバス停について〝あれこれ〟と紹介していきます。

 

大阪シティバスのバス停といえば…?

f:id:Matsuda_KOTU:20210906213945j:image[バスロケーション付き電照式型]

大阪シティバスの停留所数は路線図で見る限り目が痛くなるほどの数であり、その一つ一つにバス停が設置されています。市内中心部であればバスロケ装置の無いシェルター型が多く見受けられ、郊外になってくると比較的に電照式のものや簡易的な物が見受けられます。

最先端は広告付きシェルター型

f:id:Matsuda_KOTU:20210906065052j:image

上記のシェルター型は2000年代後半に設置が始まり、最近では停留所老朽化に合わせてこの型に取り替えられています。(福島区役所前・吉野など)

こちらは、バスロケシステムが無い代わりに電照式のものより大きい広告が付いており現在ではこのタイプが主流になりつつあります。

名古屋市営バスにもこれと似たようなタイプがありますね。

未だに数の多い電照式型

f:id:Matsuda_KOTU:20210906220810j:image[バスロケーション付き電照式型(上部の新喜多東と同タイプ)]

f:id:Matsuda_KOTU:20210906220950j:image[電照式型(こちらにはバスロケーションは無い)]

おそらく一番見かけるのはこの辺りでしょうか。濃緑色のバス停にはバスロケーション(バス待ちのイライラを改称するためにバスの現在地をキャッチして接近情報を知らせるシステムのこと)が搭載されています。しかし、白色のバス停には搭載されていません。

共通するものとしてはどちらも蛍光灯が内蔵されているため夜では明るく灯るので視認性は高いと思われます。

f:id:Matsuda_KOTU:20210906222408j:image[上本町六丁目バス停]

そもそも、このバスロケーション付きのバス停が導入されたのは1981年4月のことで上本町六丁目~住吉車庫前間で導入されました。関西では先に京阪バス枚方高槻線で導入(1980年3月)されているため1年遅れての導入となります。

よく見てみると…現在のモデルとでは少し違いがあるのが確認できますね。しかし1988年の野田阪神前~春日出車庫前(現:東島屋)・酉島のバスロケ設置時には現在のモデルの型になっているのが確認できました。この頃に変更があったのでしょうか。

これらの種類の他にシェルター付きのバスロケ停留所もあるのですが、別の機会で紹介します。😌

f:id:Matsuda_KOTU:20210906222603j:image[城北公園前バス停(1985年4月導入)]

簡易型

f:id:Matsuda_KOTU:20210907144943j:image

f:id:Matsuda_KOTU:20210907145623j:image

f:id:Matsuda_KOTU:20210907145817j:image[赤バス転用型]

簡易型は郊外部でよく見られるもので型は様々、上記の写真以外にも独特なバス停があります。

f:id:Matsuda_KOTU:20210907150247j:image[さらに古い型のバス停]

もっと前になると縦書き式のもので、導入されたのは1973年。現在はほとんど見られなくなりましたがバス停工事中に仮設されたバス停や、おりば専用のバス停に転用される形で残っています。

f:id:Matsuda_KOTU:20210907151214j:image[長吉長原東三丁目バス停おりば。鶴見商業高校前から転用]

 

見れたらラッキー!な行灯型

f:id:Matsuda_KOTU:20210907152249j:image[あべの橋バス停(撤去済み)]

大阪シティバスにはこのようなレトロなバス停も存在します。これは1973年に登場した「行灯型」と呼ばれるものです。

f:id:Matsuda_KOTU:20210907155206j:image[行灯型が普及する前のバス停]

1960年代後半には行灯型に似たバス停が存在していましたが、あまり浸透はせず木製の簡易型がほとんどであったので、この行灯型が登場してからは市内中心部をはじめ至るところに設置されました。

f:id:Matsuda_KOTU:20210907154301j:image

行灯型が主流の時代はこのように系統番号と時刻表、ご案内が掲載されていました。このあべの橋バス停にも、うっすらですが系統番号とご案内が残っていました。f:id:Matsuda_KOTU:20210907154616j:image[11、13の文字]

近年では地下鉄住之江公園あべの橋が撤去され、残るは2基と絶滅寸前。行灯型とはいえかなり古いものなので、夜間点灯はもうしていません。

残りの2基は割と大阪市内中心部にあるのでぜひ見つけてみてください☺️

 

過去にはこんなものも…

f:id:Matsuda_KOTU:20210907160726j:image

これは廃止した大阪市電路線のサイドポールをバス停に転用させたものです。当初は川口町(現:川口一丁目)~森ノ宮東之町(後の森ノ宮駅前【1979年廃止】)に設置されました。下の表示板はホーロー焼き付け、上の標識には蛍光灯が取り付けているなど、丈夫で夜間にも見やすいバス停であったようです。

 

さいごに

f:id:Matsuda_KOTU:20210907165755j:image

私がここで紹介したもの以外にも変わった型のバス停があります。が、これらは大阪市営バス時代に作られたものであり、実はシティバス独自といったバス停はまだありません。おそらく、ダイヤ改正による大規模な路線新設・停留所新設がなく、バス停設置の機会というのは劣化による交換ぐらいで大体は営業所内のストックで賄えているんだと私は考えます。(シェルター型は過去のものをそのまま新製した形でしょう)

大きな変更があったといっても民営化を控え、市バスマークを撤去するために簡易型であれば上からシールで覆ったり、電照式であればアクリル板を差し替えたりといった変更があったくらいです。

バス停も時代に合わせて進化しているので、次にどんなデザインのものが出るのか楽しみです。

 

では👋

大阪市営バスのゾーンバス制度って結局何だったのか?【後編】

こんにちは😃

今回は後編になります。

大阪市営バスのゾーンバス制度って結局何だったのか?【前編】 - マツダ交通の見たまま

↑前編はこちらからどうぞ

 

全地区でゾーンバス制度導入へ

f:id:Matsuda_KOTU:20210804142717j:image

平野・東住吉エリアでゾーンバス制度が始まった(1974年)ことで2年後に出戸バスターミナルが開設したのですが、実は経営難とあって進行中であった地下鉄延伸工事があるために頓挫せず何とか建て直したいという背景がありました。

そこで大阪市「ライド・アンド・ライドシステム」という〝バスや地下鉄などの公共交通機関の乗り継ぎ(割引)制度を核にした交通体系を確立させる〟施策を打ち出しました。これを行うことで「自動車(マイカー)を使わずとも公共交通機関を乗り継ぐことで快適に早く目的地に着ける」という利点がありました。また、乗り継ぎを円滑化させるために適当な箇所にバスターミナルを設置させる方針も固めたのです。

この頃の地下鉄は大阪万博への頑張りもあってか大阪市中心部は潤っている状態であり、バスとを乗り継がせるには充分でした。

f:id:Matsuda_KOTU:20210804222715j:image

バス事情では一部で最先端のゾーンバスを導入しているうえに最先端のバスターミナルを開設しているので、これらを全て絡めた大阪市内の公共交通機関の見直しが行われました。

f:id:Matsuda_KOTU:20210804150828j:image[1979年7月バス路線再編成実施の内容、影響としては中央線深江橋~阿波座と重複していた90号系統(高井田※1~森ノ宮駅前~川口1~野田阪神前)が廃止]

※1:高井田新深江駅より少し東にある現在86号系統のみが停車する停留所。(地下鉄の高井田とは関係ありません😅)

1979(S.54)年7月22日、この大規模なバス再編成とゾーンバスシステムの範囲を一気に広げたうえ、地下鉄・バス乗り継ぎ割引制度(地下鉄・バス乗り継ぎ指定停留所を設置)が実施された事で本格的に計画が施行されました。(ちなみにゾーンバスの範囲拡大は1978年頃から先行で行われていた)

f:id:Matsuda_KOTU:20210804171702j:image[あべの橋に設置された地下鉄・バス乗継指定停留所の看板。見えづらいが、「バス 地下鉄乗継停留所」と書いてある。ここでは地下鉄天王寺駅が最寄りの停留所として指定されているために乗継割引が適用されるが、北隣の天王寺西門前は適用されない。]

f:id:Matsuda_KOTU:20210804153754j:image[開設された歌島橋バスターミナル(現在は閉所)]

f:id:Matsuda_KOTU:20210804154016j:image[歌島橋バスターミナル開設当時の行先別 出発時刻表示盤]

乗り継ぎを効率良くするためのバスターミナルの設置も1981(S.56年)年3月3日に歌島橋バスターミナル同年12月5日に北巽バスターミナルと続々開設され、ライド・アンド・ライドシステムが完全に機能されたのです。

つまり、出戸バスターミナル乗り継ぎターミナル設置への試金石だったのですね。

そして、地下鉄・バス乗り継ぎやバスターミナルがあったのも、この〝ゾーンバスがあったから〟なのです。

f:id:Matsuda_KOTU:20210804155206j:image[接近表示機付きのあべの橋バス停]

余談になりますが、バス優先の専用レーンも範囲を広げ、バス優先信号の設置、バスロケーションシステム(接近表示付きのバス停)を設置したことで、多くの路線での定時性の確保やバス待ちでの問題解消にも携わりました。

 

複雑さが増したゾーンバスの実態

f:id:Matsuda_KOTU:20210804160235j:image[ゾーンバス制度とは無縁の一般系統の方向幕]

f:id:Matsuda_KOTU:20210804163756j:image[かなりややこしい特系統の方向幕]

 

1979年にゾーンバス実施エリアが拡大したのは良かったものの、逆に返って複雑になりました。それが、新たに区別された一般系統特系統というものです。

一般系統は幹線・支線という区別がそもそも無いので、たとえ乗り継ぎ指定停留所に降りて乗り継ぐことはできません。まぁ、これはまだ分かります。

問題は特系統なのです。

特系統というのは、幹線・支線区間をそのまま直通で運行する系統路線です。幹線から支線の乗り継ぎは降車しなければいけないので手間はかかりますが、これに乗るとそのまま乗り継ぐことが出来ます。しかし、これには罠がありました。

f:id:Matsuda_KOTU:20210804180038j:image[1985年当時の路線図]

例えば、特6号系統で美章園(左上)に乗車し、南下した先にある乗継指定停留所の湯里六丁目(右下)幹線4号系統に乗り継ぐ場合ですが、何故かこれはできません。

理由としては、特系統には幹線・支線境界停留所というものが設けられています。この路線図でいえば、美章園~中野中学校前は幹線区間なので実線(―)中野中学校前~湯里六丁目は支線区間なので破線(---)で表されています。

つまり、幹線と支線の境界は「中野中学校前」であるため、幹線区間美章園から乗車し、境界の中野中学校前を〝超えて〟支線区間の湯里六丁目に降車することは、〝自動的に幹線・支線に乗り継いで降車した〟と見なされるため、いくら乗り継ぎ指定停留所で降車したとはいえ乗り継ぐことはできません。

f:id:Matsuda_KOTU:20210804182234j:image[当時の路線図案内には、特系統の取り扱いは記載されていない]

結果的に特系統を利用する際には幹線あるいは支線区間のみの利用であれば、乗り継ぎは可能でしたが、このようなケースは利用される方にもなかなか認知がされていませんでした。

それに従来の乗継指定停留所の存在も相まったことで余計に自由が利かない使いにくさが問題視されました。結局、ゾーンバス制度が廃止になったのは2002(H.14)年5月20日コミュニティバス路線の見直しで赤バスが本格的に運行開始に合わせて行われました。

しかし、この時の変更内容は新たなバス乗り継ぎ割引制度の実施〝乗るバスにこだわらず、幹線・支線などという区別を無くす〟というもの。ただ、まだ乗り継ぎ指定停留所の制度はしばらく残っていました。しかしこれも2005(H.17)年の12月頃に地下鉄・バス乗り継ぎ割引の変更に合わせて廃止になりました。現在の〝一度目の降車から乗り継いで降車するまで90分以内〟であればバス乗り継ぎ割引が適用されるというスタイルになりました。

 

さらにはゾーンバス制度が廃止されたことでバス路線の幹線・支線・特などが廃止になったため、全て系統番号が数字のみになりました。

  • 幹線1号系統→1号系統
  • 1号系統→101号系統

特にこの1号系統となればゾーンバス制度中は幹線1号系統と1号系統の2つの系統があったので、誤解を招かないためにも敢えてできるだけ馴染みのある番号にしました。

 

総評

ゾーンバスとは、現在の交通機関の乗り継ぎ割引体系の確立と円滑な輸送を図るためのターミナル整備に係るに欠かせない存在だったのです。

ただ、やはりルールが複雑かつ厳格すぎたことからゾーンバス自体は無くなってしまいましたが、改善があって今のような自由の利く割引制度などが出来たのだと思います。ある意味、名残ですね笑

今では乗継券すら無くなり、回数カードかPiTaPaICOCAを初めとしたICカードでの割引制度と移り変わりましたが、今度はどのように派生していくのか気になるばかりです。

 

では👋

大阪市営バスのゾーンバス制度って結局何だったのか?【前編】

f:id:Matsuda_KOTU:20210731135631j:image

こんにちは😃

今から約20年ほど前に大阪市営バスが実施していた「ゾーンバス制度」ってご存知ですか?

私も名前は知っていたものの、そんなに利用した事が無かったので〝結局あれは何だったのか?〟をゾーンバス制度の基礎を踏まえて紹介していきたいと思います。

かなり内容が長いのでそこはご理解ください…

 

そもそも「ゾーンバス」って?

1974(S.49)年に実施されたシステムで、市内の根幹を走る路線から郊外部方面へ行く際に1度、根幹を走る路線(幹線)で乗り継ぎができる指定の停留所まで乗り、そこから郊外部付近を走る路線(支線)にそのまま乗り換える、といった「再度お金をかけずに」乗り換えをして色んな場所に行けるようなシステムをとりました。現在のバス→バス乗り継ぎ割引の元祖版のようなものです

(1974年11月当時の市内運賃は50円であるため、乗継してもそれ以上の運賃はかかりませんでした)

これをする事で「行き先を気にせず」にどのバスに乗ってもとりあえずは乗り継ぎができる停留所まで行けばいいので、待ち時間が大幅に短縮される利点がありました。

f:id:Matsuda_KOTU:20210731163150j:imagef:id:Matsuda_KOTU:20210731163554j:image[幹線あるいは支線路線の降車時に乗継券を発券して乗り換える]

 

シンボルは赤いリスマーク

f:id:Matsuda_KOTU:20210803111112j:image

ゾーンバスのシンボルはこの「赤いリス 」です。車両には幹線バスが緑色塗装、支線バスが赤色塗装(1979年以降は車体塗装変更のため区別無し)といった区別がされている上、前面左上部にこのリスのヘッドマークを掲出していました。

なぜ、リスを採用したのかというと「支線バスがリスのようにすばやく」という意で採用されたようです。あとは予測ですが、「支線を走る路線は主に中型車(幹線は大型車)が運用していた背景があり、隘路を走るような路線を小柄なバスが走り抜ける」というのも考えられますね。

1980年代半ばになると、若干デザインが変更されたのかリスの目が丸くなり、さらに1989年12月1日には、翌年に控える「国際花と緑の博覧会」があるためPRとして全車両のリスのヘッドマークから「花ずきんちゃん」に変更されました。(リスのデザインをそのまま上塗りしている)

f:id:Matsuda_KOTU:20210803143954j:image[花ずきんちゃんのヘッドマーク付き車両]

 

ゾーンバス制度導入の経緯

そもそも、ゾーンバス制度が何故導入されるようになったかを調べていきます。

f:id:Matsuda_KOTU:20210801090229j:image[ゾーンバス導入前の長吉長原地区(大阪のあし)]

当初にゾーンバスが導入されたのは大阪市営バスが運行する全ての系統路線ではなく、実は平野区(1974年9月に東住吉区から分区)と東住吉区のみでした。

これには理由があり、1955(昭.30)年の第3次市域拡張により、新たに大阪市編入されたことで公営住宅建設とインフラ整備が進められたことで急激に人口が増加しました。東住吉区東部には御堂筋線、北側にはJR線等が通じてはいますが、特に出戸や瓜破などといった地区はバスを唯一の輸送機関としていました。

例えば出戸から天王寺方面へバスに乗るにしても、特にラッシュ時では道路が混雑しているのでバスの定時性の確保が難しく、さらに系統路線がかなり複雑に絡んでいたためか、どうしてもダンゴ運転が生じてしまう背景がありました。

そこで、「出来るだけ早く目的地に着けるように」ゾーンバス制度を導入させたのです。

f:id:Matsuda_KOTU:20210801135038j:image[当時の大阪市だより]

f:id:Matsuda_KOTU:20210801135156j:image[ゾーンバス開通日の様子]

f:id:Matsuda_KOTU:20210801135231j:image[ゾーンバス運行開始記念乗車証]

 

1974(S.49)年11月28日、このような式典などを迎えながらゾーンバス制度が東住吉区平野区でスタートしました。さらに、バス優先のための交通規制を実施するにあたりバス専用道・専用レーンの設置を行いました。

f:id:Matsuda_KOTU:20210801140606j:image[ゾーンバス実施当時の系統図]

f:id:Matsuda_KOTU:20210801140532j:image[乗り継ぎ指定停留所一覧表(下部に特例が記載されている)]

 

出戸バスターミナルの開設

ゾーンバス実施直後は中々の好成績だった裏で最大の難点がありました。

それが「幹線から支線へ乗り継ぐ時の不便さ」でした。乗り継ぎをより便利するためにはターミナルの設置が必要になったため、一番路線が集中する出戸[現:地下鉄出戸]停留所付近にバスターミナルを設置、1976(S.51)年10月9日に出戸バスターミナルが開設しました。(既存の出戸操車場をバスターミナルに改装?)

f:id:Matsuda_KOTU:20210801151001j:image[開設当時の出戸バスターミナル]

f:id:Matsuda_KOTU:20210801150600j:image[出戸バスターミナル(2015年頃)]

バスではこのような動きがありましたが、この頃の地下鉄では谷町線(東梅田~都島、都島~守口)の開通があり、市内中心部には地下鉄路線が網状に整備されてきました。

このゾーンバス制度を地下鉄と連携させることになりますが、それについてはまた次回で紹介しようと思います。

 

では👋