マツダ交通の見たまま

主に大阪シティバスの小ネタや歴史をディープに掘り下げる考察系ブログです。

大阪シティバスの最短路線を探る!

こんにちは😃

唐突ですが、大阪シティバスは2014年(公営バスの頃)にかなりの路線が無くなったのに未だに欠番はありながらも98番まであるんですよね。それに区間便などを足せば大体110?かそこらの数にはなるはずです。これだけの路線があるのですから、その中で、今回は大阪シティバスの最短路線といえばどこの路線なのか?という点に注目することにしました。

 

f:id:Matsuda_KOTU:20200927174137j:image8号系統 大阪駅前~なんば

【往復キロ程(m) 8,759】

前置きとなりますが、今回は往復を併せての距離で最短路線はどこなのか。また、第3位から紹介させていただきます。😊

ちなみに片道のみの運行系統を含めれば、ダントツで83A号系統(新森7丁目~花博記念公園北口)となり、約850mという驚異の短さです。1キロも満たない路線はこの83Aぐらいでしょうね。

 

第3位

 

  • 2号系統

(出戸バスターミナル~長吉長原東三丁目)

f:id:Matsuda_KOTU:20200927180723j:imagef:id:Matsuda_KOTU:20200927182247j:image

粗い写真で申し訳ないのですが、この2号系統は3番目に短い路線となります。

往復キロ程は4,740m。(往路・復路とも2,370m)

長吉中学校前から南は一気に住宅地となり、(廃)長吉車庫の方までを結びます。

  • 長吉長原東三丁目は元々は長吉営業所・車庫が存在したため、2014年4月のダイヤ改正前は長吉車庫前という名称でした。

第2位

  • 82号系統

(西九条~高見一丁目【下水道科学館前】)

f:id:Matsuda_KOTU:20200927182405j:image(実は82号系統は此花朝日橋は停車しません…)

 

往復キロ程は4,330m(往路1,990・復路2,340)となります。

82は西九条から高見地区の住宅地を結ぶ路線です。1998年4月1日に特82号系統として運行されました。

  • 過去に千鳥橋の工事(橋梁撤去・盛土)で大きく迂回した時期もありますが、今では従来と同じ経路になっています。

f:id:Matsuda_KOTU:20200927183540j:image2000年当時の路線図

 

休憩。。。。

1位……の前にかつて運行していた当時の最短路線を紹介していきます。

  • 支線臨105号系統

(境川弁天町バスターミナル)

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往復キロ程は3,130m(往路1,310・復路1,820)と3km台。🙄

しかも、境川弁天町バスターミナル間は約5分で着いてしまうという短さ。

従来の支線105系統(境川~弁天町駅前・石田3経由第三突堤前)を弁天町バスターミナルを開設したことで、弁天町駅(弁天町バスターミナル)~境川間を分離させて出来たのが支線臨105号系統です。

開設の1984年から1994年のダイヤ改正まで存在しました。

▶️ちなみに波除には『港高校前』の付随名称がありました。

 

  • 19号系統

(大軌小阪駅前~大軌長瀬駅前)

往復キロ程は3,400m(往路・復路とも1,700m)

これ、、あまりに場違いにも程がありますが、確かにかつて存在した路線です。これは、もともと大阪乗合自動車(青バス)が所有していた路線で、1940年6月1日に市営バスとの事業統合の際に継承された路線です。

停留所は大軌小阪駅前→布施郵便局前→中小阪→菱屋西→大学通→大軌長瀬駅となっています。翌年には大阪電気軌道(大軌)と参宮急行電鉄(参急)が合併し、関西急行鉄道(関急)に改組したため、大軌と付く2つの停留所が関急と名称を変更しています。

しかし、戦時下での路線縮小で1941年9月1日に休止(実質的には廃止)になっています。

 

  • 臨62号系統

(地下鉄長居~矢田西通一丁目)

往復キロ程は2,300m(往路・復路とも1,150m)とまさかの2キロ台。当時の路線図には記載すらありません。また、矢田西通一丁目は現在の長居公園南口停留所になります。何のためにあった路線なのかはよく分かりませんが、片道だけでなく往復便として存在していました。

正確に存在した時期は不明ですが、1970年代初頭には運行していました。

 

閑話休題。。。

長くなりましたが、第1位の発表です。

第1位

  • 95号系統

(豊里団地前~上新庄駅前)

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第1位を飾るのは東淀川区豊新・豊里地区を走る95号系統です。

往復キロ程は4,150m(往路1,860・復路2,290)という短さ、往路に至っては豊里団地~上新庄駅約6分で到着しちゃいます。

  • 北淀高校前は2018年に淀川清流高校に名称変更しています。

 

 

この3つの系統から分かってくることが、住宅地から駅までを結ぶ支線のような役割を果たしているであろうことが窺えます。また、短い距離を走る路線はこのような目的のために設けられた一種の理由と推測することができます。(その限りではないモノもありますが、、、)

最後に、、、、

今回は2号系統、82号系統、95号系統を紹介しましたが、実はわたくし95号系統以外は乗ったことがありません笑😅

正直に言うと個人的に路線バスに乗るとすれば、短時間で終わってしまう路線よりも運行時分が1時間程かかる路線を乗って満喫しちゃうタイプなのです。しかし、今まさにこういう研究を行った上である意味この路線たちの特色を見つけたような気がして、「じゃあ今度乗りに行こう」という気持ちにされます。

今回は短いという部分を重きに置いて紹介しましたが、他の路線に至っても何かの特色はあるはずでしょうから、それを探してみるのも一種の楽しみなのかもしれませんね。笑

 

では👋🏻

大阪市バスに存在した神崎橋行きを語る

久しぶりの投稿になりますが、6年ほど前に大阪市バスで運行していた大阪駅神崎橋行きはご存知ですか?

現在は神崎橋停留所は廃止となり加島駅前行きとなっておりますが、なんだかんだ阪急バスとも並行している面白い路線なんです。

今回はその神崎橋行きもとい大阪市営バス旧97号系統などについて話していきます。

 

神崎橋のあたりは市バスか阪急どちらが先に運行していた?

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元々は阪急バスが先に運行していました。

厳密に言えば個人経営の事業者が、十三―今里―加島町―神崎橋(加島線/1926年8月開業)を所有していたものを十神乗合自動車株式会社という事業者に譲渡、後(1930年7月)に阪神合同バス(現在の阪急バス)に事業譲渡されました。

十神乗合自動車では、加島線の他にも今里―野里(野里線)、加島町―千舟橋(千舟線)の支線を有しており阪急譲渡後もそのまま継承されてます。ただ、十三―神崎橋の経路間では、各地で新道に乗せかえる変更がなされています。

一方の大阪市バスは戦後になってから運行するようになります。

第一次郊外バス乗り入れ協定による大阪駅前―十三間の阪急バスの乗り入れを認めて1948年2月1日に開始※1、追って市バスも特許を得たので1948年7月に当時の41号系統 天満橋~加島町が新設されました。戦前当時の大阪市バスの郊外路線はフィーダーというよりも他社線~市電との接続をすることが多く、十三からは三国方面に行く路線しかありませんでした。他社線も市電も走っていない加島には伸ばすことにあまり需要が無かったと私は考えています。

1948年に加島町に伸ばされてから、1951年12月に神崎橋まで延長されたという形です。

 

※1:昭和24年(1949)12月当時の阪急バス加島線(大阪駅~加島町間)の1日運行回数は75回。ラッシュ時での運行間隔は7分に閑散時には12分に1本でした。

トロリーバス開業をめぐって…

大阪市トロリーバス神崎橋~十三・阪急阪神前間に運行させる際に並行して走っている阪急バスが苦言を呈します。 

まず第一に路線バスを有している上に重ねてトロリーバスの運行を行うという営業増強は阪急バスにとっては支障が出る、つまり不利益なものだったので第二次乗り入れ問題の焦点にもなりました。結果的には41号系統を廃止(1953年9月1日のトロバス開業に伴って)、トロリーバス・阪急バス路線の運行本数を制限するなどの取り決めにまとまりました。※2

この区間トロリーバス1号線にあたるのですが開業の裏側にはこのような話があったのです。

 

※2 梅田~加島町間の運行については、トロリーバスの運行回数が120往復。併せてトロリーバス開業と引き換えに必要のない市バス路線(41号系統)を廃止にし、阪急バスに至っては運行回数をトロリーバスよりも30回も多い150往復とした。

トロリーバスの廃止

モータリゼーションの発達でもはや一元的輸送のトロリーバスが元凶で渋滞を起こしていくことになったため、1969年10月1日に廃止になりました。

代わって一般路線として97号系統 大阪駅前~神崎橋として新設されました。これが、現在の97号系統の元となる路線です。

また1978年7月1日改正では、郊外路線である112号系統 野田阪神前~加島・豊中インターチェンジ野田阪神前~加島・神崎橋に変更(加島以北の庄内西小学校前・庄内栄町五丁目・豊中インターチェンジは廃止)、1979年7月22日改正の歌島地区ゾーンバスの導入により、97は幹線97号系統、112を幹線112号系統と変更されました。従って、この頃の神崎橋発着系統は2本になります。(幹線112号系統は1981年3月の歌島橋バスターミナル開設により支94 歌島橋BT~神崎橋に短縮・系統番号変更)

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[1980年12月当時の路線図]

JR東西線開業とその後

1997年3月8日にJR東西線が開業し、加島駅が出来たため、幹線97号系統から幹線臨97号系統 大阪駅前~加島・加島駅前を新設。これに伴い支線94号系統は廃止となり神崎橋発着系統は幹線97号系統のみとなります。

ゾーンバス廃止後は幹線97号系統を97号系統、幹線臨97号系統を97A号系統と変更されます。

後に97と97Aは統合、さらに区間便という形で加島駅前行きが設定されていましたが、2014年4月1日の改正でついに神崎橋行きは廃止、97号系統は全て加島駅前行きとなりました。

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[草茫々で蕭寥たる様を見せる廃止後の神崎橋停留所]

 

97号系統を含めた神崎橋発着系統の変遷は大体このような感じですが、阪急バスさんもついに神崎橋を通る加島線が廃止(https://www.hankyubus.co.jp/news/images/20200719k.pdf)となり、驚きしかないのですが神崎橋を通る路線が無くなるのは寂しいものです。

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[廃止となる加島駅前停留所]

 

では👋🏻

未だに残るゾーンバス時代の遺構

   お久しぶりです。2ヶ月ぶりでしょうか、今回も大阪シティバスのネタで某停留所に残るゾーンバスの遺構を紹介します。

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停留所の標柱に未だにこんなものが残ってるんですね~😟

 

さらに拡大。

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青字で書かれているのは地下鉄です。見えづらいですがこの地図では長堀鶴見緑地線鶴見緑地が終点の頃のようでした。(西は心斎橋が起点)

 

Q.この路線図はいつ頃のものなのか?

 

f:id:Matsuda_KOTU:20190930162236j:image[2000年当時の路線図]

 

特21、幹67、幹86、幹22はこの路線図に全て記されていますが、幹22Aは記載されていません(区間便であるため?)

また、上記で紹介したように鶴見緑地線の起終点駅を考慮すれば1996年頃と推測できます。

 

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今回はちょっとしたネタで載せましたので、あまり話を展開することは出来ませんでしたが、面白い発見であったことだけは言えます。🙃

 

 

では👋🏼

 

出戸BTで見つけた謎の古看板

久しぶりに大阪シティバスネタです。

とは言うものの撮影したのは市営バスの時でしたが😅

f:id:Matsuda_KOTU:20190719223405j:image(2015年撮影)※現在は撤去済み

出戸バスターミナルにはこのような妙な看板が置かれていました。おそらくバスターミナル付近での自転車やオートバイの放置を許さない旨の事が書かれていると思いますが、そこが今回のネタではありません。これ、よく見てやると白字で何か書かれているのに気づきませんか?

 

えぇ、実は大阪市バスの運行路線の変更を告知した看板です。こんな物が最近まで残っていたこと自体すごいことだと思いますね。

 

f:id:Matsuda_KOTU:20190719224725j:image

何はともあれ、内容が知りたいわけであります。大阪市バスの運行路線変更は分かっていたとしても中身まで分からなければ面白くありませんので、書いてある内容を調べて出来る限り再現しました。(ただ一部端折っています)

 

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                               お知らせ

大阪市バス運行系統の再編成に伴い  ??日

大阪市バス路線は下記の通り変更しますことをお知らせします

 

変更系統

系統番号    起点       経由地        終点        備考

   幹  3     出戸BT  北島2丁目 出戸BT      延長

   幹49     難    波  北島2丁目  難    波      変更

 幹臨49 あべの橋 北島2丁目 あべの橋    新設

   支51   三明町1      昭和町      西田辺      短縮

   特54   住吉車庫    矢田小前 住吉車庫    延長

 

休止系統

系統番号     起点        経由地      終点        備考

   幹40     長居車庫      玉出     西住之江

   幹54     あべの橋    播磨町   長居車庫

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改めて見てみますと、長居車庫というワードが出てきましたが勘が鋭い人は分かるのではないでしょうか。休止系統に長居車庫が出てきているということは長居車庫が廃止される直前の物と分かります。

また、この変更がいつ頃のものなのかを調べますと1983年(昭和58年)3月13日のものとも分かりました。その日は長居車庫があべの東操車場に機能を移した日(住吉営業所阿倍野支所が出来る)でもあって長居車庫前発着路線(地下鉄西田辺~長居車庫前間)の撤退措置にあたるということです。

f:id:Matsuda_KOTU:20190719232615j:image長居車庫廃止前の路線図(1980年頃)

 

 

最後に・・・

1980年代初め頃はバスターミナルがポツポツと増えていく代わりに営業所(車庫)が消えていくという印象が個人的にあるのですが、その当時を物語る資料はなかなか少ないです。長居と同じ頃に閉所した生野・加美営業所でさえもそういった遺構等は見ないのに対し、こんな所に長居車庫の当時の状況がよく知れた貴重な資料が残っていたのは大変感慨深いものであります。

 

では👋🏼

 

 

バスまつり2019

お久しぶりです。

今回はネタというかこの前のバスまつりに行ったことの報告です。

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私は朝の7時台から並んでいましたが、なんとまぁ待ってる人は少ないこと、昨日からの雨などが絡んだのが影響なんだと思いますが、私が並んでいる時間帯でも時たま~にパラパラと雨が降っていて少し先が不安だなという感じでした。😳

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愛する大阪シティバスさんの新車も颯爽と会場に到着。いやぁ、京都でシティバスが見れるのは目新しいというか眼福でした。

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近鉄さんはビスタで会場へ……

神姫バスさんもリアテールがなかなかエロい車両を連れてきてましたが生憎撮れずじまい。😢

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会場内はすっごい窮屈で、車両を撮るのにも一苦労。もはやマトモな写真を撮ろうとするのは諦めて正解でした。

こちらは山陽バスさんのKL規制エルガ。元海峡シャトルだったと思います。

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海峡シャトルといえば過去にはキュービックも出してましたね~☺️

当時はまだバスマニア入りたての時期でしたので良い刺激でしたな。笑

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淡路交通さんは中扉付きのエアロバスを展示。もはや名物、淡路交通さん1台ものです。笑

 

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展示車両を全て撮影するのにはかなり無理があり、気になった車両あたりを狙って撮ったのでだいたいは満足しています。また、物品販売にも虎視眈々と目を光らせえげつない買い物してしまいましたが、これも一興。

中でもバス標柱看板を購入したので、今度ホームセンターにでもいってバス停を作ってみようかと計画中であります笑笑

 

では👋🏼

 

いまざとライナーに乗ってきた話

最近は路線の変遷といったマイナーなことを投稿していましたが、今回は一風変わって3月の試乗会に参加した話をしようと思います。まぁ、今となってはバリバリ運行中の路線で、特に驚くこともない話ですが、ある意味「確認」という形で読んでいただければよろしいかと。。

 

f:id:Matsuda_KOTU:20190421142230j:image[(旧)東成営業所で停車中]

LEDがとても弱い………

外見では橙色がとても目立つような塗装ですが、これは「いまざとライナー」の本質というべきでしょうか。今里筋線の延伸区間での実際の乗降率のデータなどをもとに鉄道代替の可能性の有無を問うためのBRT社会実験というものですから、今里筋線のラインカラーに模した橙色が採用されたものかと思われます。

またナンバープレートは希望ナンバーで、大阪ナンバーなので守口営業所の車両ですね。4ケタの車両ナンバーの上2ケタも今里筋線で使用される80系に倣って登録したものでしょう。

f:id:Matsuda_KOTU:20190421143234j:image[車内前方にあるLCD

f:id:Matsuda_KOTU:20190421143808p:image[なんだこれ]

内装はだいぶ凝ったものでテーマ性も持ったデザインになっているのだとか。(全部で14種類あります。)

車内のレシップは前方と中扉近くの座席あたりの2箇所に設置されており、そこから行先や、停留所での乗換案内が詳らかに表示されています。さらに英語での案内もされており、電車宛らといったもの。

前方のLCD付近には別でモニターがついており、ニュースや天気予報といったお知らせが流れるのでかなり便利です。

f:id:Matsuda_KOTU:20190421144627j:image[モニター]

細かい部分での変更ではオタ席が無くなってました。ドアチャイムもシティバスの車両とは違ったものが使われていました。

f:id:Matsuda_KOTU:20190421151552j:image[次は長居西二丁目…]

f:id:Matsuda_KOTU:20190421151616j:image

全体的に楽しい試乗会でした。いまざとライナーが運行を開始してからはまだ一度も乗っていませんが、機会があればまた乗ってみようと思います。

 

では👋🏼

京阪バス都島赤川線

京阪バスにはかつて大阪市内に路線があったことは当ブログにて説明しました。

(↓こちら)

http://matsuda-kotu.hatenablog.com/entry/2018/02/19/002240

 

前回は手元にそれほど資料が無くざっくりと3つの路線を説明しましたが、今回はその路線を1つに絞って調べたことをここに纏めていきたいと思います。

その1つの路線とは、この記事のタイトルになっている都島赤川線です。この路線は京阪バスの路線から孤立して存在する市内路線であり、また謎の多い路線でもあります。

1.路線のデータ

[都島赤川線]

f:id:Matsuda_KOTU:20190324172015p:image

※毛馬橋(仮称)は正式な停留所名でなくあくまで地点。

 

都島赤川線は都島橋(東詰)から毛馬橋まで大川を沿い、赤川町(大阪市電:赤川町八丁目電停の手前)に至る路線です。総距離は2.1キロと短い路線で、都島橋では大阪市電と接続していました。

2.路線の変遷

この路線はもともと地元の有志が経営していたバス路線であり、1924年(大正13年)12月に都島橋~友渕町(毛馬橋)間の免許を受けて開業した路線です。当時は赤川町まで路線は無かったんですね。1926年(大正15年)に城北乗合自動車(城北バス)株式会社と改め、同年に赤川町まで延長しました。その後、城北バスは守口~枚方町間を開業し、1929年(昭和4年)には枚方町~橋本間(9.6キロ)を開業しました。

しかし、城北バスの路線エリアは京阪電鉄の線路を近くを通ることが多く、これ以上路線の拡張がされては軽視することができないと京阪電鉄が同年6月に城北バスの全株式を買収し、都島赤川線も京阪バスによって承継されることになりました。城北バス時代は利用客は多かったようですが、後に大阪市電や大阪市バスが路線を伸ばしたこと等で起点と接続したにも関わらず次第に減少していき、戦争勃発や燃料等の統制により休止になりました。

f:id:Matsuda_KOTU:20190326232647j:image[市バス(緑)と接続する都島赤川線]

終戦直後の京阪バス路線は多くの休止路線があり、もちろん都島赤川線も含まれていました。中には再開されないまま廃止された路線(古川橋浜線、枚方倉治線の一部)も存在し、このまま廃止されるのかといえばそうではなかったようです。

休止路線再開復興計画によれば「都島赤川線は短区間で利用度低く将来大阪市内交通の一部として再開予定なれども当分休止継続」という見解で実際には第1次郊外バス乗入(1951年8月1日により今市町~天満橋に至る路線の乗り入れ開始)前後に再開した形かと思われます。(←正確な再開開始日は不明だが、都島赤川線の路線再開は確認)

f:id:Matsuda_KOTU:20190326232706p:imagef:id:Matsuda_KOTU:20190326232710p:image[第1次郊外バス乗入後の大阪市内]

第1次郊外バス乗入後の京阪バスは次に第2次郊外バス乗入を申請し、御堂筋を通り大阪駅天六を通り都島赤川線の起点である都島橋を過ぎて森小路一丁目(現:高殿)に合流する路線と片町から上六に至る路線を計画していました。結果的には大阪市が反対し、天満橋~内本町・本町バスセンターまでの路線を延長する形で運行しました。(1953年8月1日実施)さらには1951年に天六以北の淀川右岸線(新京阪沿線の路線など約130キロの路線)が阪急バスに譲渡したことにより京阪バスの路線が繋がることはほぼ無くなり、都島赤川線は市電・市バスに挟まれる状態での運行でした。

最終的に都島赤川線は廃止になったのですが、時期については如何せん情報がない状態です。。(申し訳ありません·····)

 

まとめ

結構ごちゃごちゃとした内容でしたが、やはり謎が全て解けずのままは何だかもどかしい気分であります。ちなみに城北バスはもともと船や電車の便が悪いために都島赤川線が作られたようですが、他の路線バスで良く聞く話では神社や寺の参拝をする際の輸送で路線を作る(石切自動車や御陵参拝バス商会など)という観光的な部分とは違い、地域の生活の支えとして担うバス会社が出来るとなると大変頼もしいものです。そして時代が流れて需要が無くなったからと路線を休止・廃止になったとしても、一応過去には活躍していた時代があったわけですから、その時代の背景こそ私にとっては大変興味深い部分なのです。

もちろん不明な部分は今後変わらず調査をしていく予定です。

 

では👋🏻