マツダ交通の見たまま

主に大阪シティバスの小ネタや歴史をディープに掘り下げる考察系ブログです。

京阪バス都島赤川線

京阪バスにはかつて大阪市内に路線があったことは当ブログにて説明しました。

(↓こちら)

http://matsuda-kotu.hatenablog.com/entry/2018/02/19/002240

 

前回は手元にそれほど資料が無くざっくりと3つの路線を説明しましたが、今回はその路線を1つに絞って調べたことをここに纏めていきたいと思います。

その1つの路線とは、この記事のタイトルになっている都島赤川線です。この路線は京阪バスの路線から孤立して存在する市内路線であり、また謎の多い路線でもあります。

1.路線のデータ

[都島赤川線]

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※毛馬橋(仮称)は正式な停留所名でなくあくまで地点。

 

都島赤川線は都島橋(東詰)から毛馬橋まで大川を沿い、赤川町(大阪市電:赤川町八丁目電停の手前)に至る路線です。総距離は2.1キロと短い路線で、都島橋では大阪市電と接続していました。

2.路線の変遷

この路線はもともと地元の有志が経営していたバス路線であり、1924年(大正13年)12月に都島橋~友渕町(毛馬橋)間の免許を受けて開業した路線です。当時は赤川町まで路線は無かったんですね。1926年(大正15年)に城北乗合自動車(城北バス)株式会社と改め、同年に赤川町まで延長しました。その後、城北バスは守口~枚方町間を開業し、1929年(昭和4年)には枚方町~橋本間(9.6キロ)を開業しました。

しかし、城北バスの路線エリアは京阪電鉄の線路を近くを通ることが多く、これ以上路線の拡張がされては軽視することができないと京阪電鉄が同年6月に城北バスの全株式を買収し、都島赤川線も京阪バスによって承継されることになりました。城北バス時代は利用客は多かったようですが、後に大阪市電や大阪市バスが路線を伸ばしたこと等で起点と接続したにも関わらず次第に減少していき、戦争勃発や燃料等の統制により休止になりました。

f:id:Matsuda_KOTU:20190326232647j:image[市バス(緑)と接続する都島赤川線]

終戦直後の京阪バス路線は多くの休止路線があり、もちろん都島赤川線も含まれていました。中には再開されないまま廃止された路線(古川橋浜線、枚方倉治線の一部)も存在し、このまま廃止されるのかといえばそうではなかったようです。

休止路線再開復興計画によれば「都島赤川線は短区間で利用度低く将来大阪市内交通の一部として再開予定なれども当分休止継続」という見解で実際には第1次郊外バス乗入(1951年8月1日により今市町~天満橋に至る路線の乗り入れ開始)前後に再開した形かと思われます。(←正確な再開開始日は不明だが、都島赤川線の路線再開は確認)

f:id:Matsuda_KOTU:20190326232706p:imagef:id:Matsuda_KOTU:20190326232710p:image[第1次郊外バス乗入後の大阪市内]

第1次郊外バス乗入後の京阪バスは次に第2次郊外バス乗入を申請し、御堂筋を通り大阪駅天六を通り都島赤川線の起点である都島橋を過ぎて森小路一丁目(現:高殿)に合流する路線と片町から上六に至る路線を計画していました。結果的には大阪市が反対し、天満橋~内本町・本町バスセンターまでの路線を延長する形で運行しました。(1953年8月1日実施)さらには1951年に天六以北の淀川右岸線(新京阪沿線の路線など約130キロの路線)が阪急バスに譲渡したことにより京阪バスの路線が繋がることはほぼ無くなり、都島赤川線は市電・市バスに挟まれる状態での運行でした。

最終的に都島赤川線は廃止になったのですが、時期については如何せん情報がない状態です。。(申し訳ありません·····)

 

まとめ

結構ごちゃごちゃとした内容でしたが、やはり謎が全て解けずのままは何だかもどかしい気分であります。ちなみに城北バスはもともと船や電車の便が悪いために都島赤川線が作られたようですが、他の路線バスで良く聞く話では神社や寺の参拝をする際の輸送で路線を作る(石切自動車や御陵参拝バス商会など)という観光的な部分とは違い、地域の生活の支えとして担うバス会社が出来るとなると大変頼もしいものです。そして時代が流れて需要が無くなったからと路線を休止・廃止になったとしても、一応過去には活躍していた時代があったわけですから、その時代の背景こそ私にとっては大変興味深い部分なのです。

もちろん不明な部分は今後変わらず調査をしていく予定です。

 

では👋🏻