マツダ交通の見たまま

主に大阪シティバスの小ネタや歴史をディープに掘り下げる考察系ブログです。

大阪市営バスがかつて走った「八番行き」ってどこ?

久しぶりのブログ投稿です。 それも、個人的に疑問だった話。 大阪市営バス豊中堺東駅に伸びていたという話は割と認知されている印象なのですが、「八番行きは知ってる?」と話すと「どこ?系統番号?」とあまり知られていないような気がします。 それも過去に何度かそういう経験があったので、今回はそれを題材にして紹介していきます。

さっそく本題に入りますが「八番」とはどこなのでしょうか?

[実際に走っていた八番行きのバス、古市営業所のいすゞBA30西工(資料提供市場氏先輩F氏)]

「八番」は大阪市内には無い

[実際の地図(1994年頃)、上部に八番の文字。] [八番行きがあった1967年当時の路線図]

「八番」という行き先は大阪市内には無く、守口市にありました。 というのも京阪バスを知られている方は既にピンと来ているかと思いますが、京阪守口市駅から北東にある、しかも現在も残る京阪バスの八番停留所の付近に存在していました。 この行き先を走る路線は130号系統のみで通称は庭窪線、大阪市外を走る郊外線として存在していました。

元々は八番よりも先で運行する予定だった

というのも、大阪市から外れた守口市が終点なので従来から京阪バスも運行しているため以前から今市(→地下鉄太子橋今市付近)を境界にして連絡運輸などの協定などが度々行われてきました。(京阪バスが八番付近を通るのは1931年9月から。) そして、近鉄バスの梅田乗り入れ(1961年) が実現したのを皮切りに京阪も1962年に相互乗り入れ協定の交渉を行い大阪市営バスは八番よりも先にある寝屋川市仁和寺まで乗り入れ(八番までの区間運行を含む)、旭区両国町(現在の清水小学校前付近?)から門真南口までの運行を提示、京阪バス天六を経由して梅田乗り入れ、旭区両国町から森小路町1(現:高殿)までの運行を提示という形をとり締結、免許申請を行ったところ府警本部が「大阪駅前の交通混雑が酷いのでこれ以上のバス路線の運行回数を増やすのは反対」という意向があり白紙となりました。

しかしながら、当初に市バスが運行していた守口車庫前よりも東にあった守口市(当時の32号系統の終点、京阪バス地下鉄守口バス停付近)から八番の間は家屋が多くあり、地元住民から路線延長の要望は依然としてあったことから再び京阪バスと交渉し、1963年12月1日に運輸協定を締結。路線延長申請の許可も得たことから、1964年4月15日に130号系統として大阪駅前〜八番の運行を開始しました。 また、担当は守口操車場(守口営業所内)で、庭窪線の定期券は守口営業所で購入する必要がありました。 (※運行回数は40回、1965年当時の大阪駅前終発時刻は21時25分だった。)

先ほど挙げた運行経路を見てわかるとおり、天神橋六丁目から守口方面は大阪メトロ谷町線区間と重複するようになっていますが、この当時はまだ谷町線すらありませんでした。 [1968年当時の大阪駅前のりば案内、駅前西1のりばに130号系統の乗り場が存在した。]

迫る谷町線の延伸、そして廃止へ

[1972年頃の大阪駅前のりば案内。130号系統は阪急百貨店前に乗り場が変更されている。]

先述したとおり、130号系統は地下鉄谷町線との経路に重複するように走っていたため、もちろん延伸と同時に縮小されていきました。

1977年4月6日、地下鉄谷町線の都島〜守口間が延伸されると4月15日に系統再編成が行われ、都島本通三丁目(現:地下鉄都島)〜八番に短縮されました。 [晩年の130号系統(1977年6月の路線図より)] [1973年当時の運賃表。1972年11月1日に大阪市営バスの料金が一律(大阪市内のみ)になっても130号系統など一部の路線は区間によって料金が異なっていた(いわゆる多区間系統路線)] [1977年当時の運賃表。]

そして、翌年の1978年7月1日の系統再編成で130号系統は廃止されました。

守口車庫前〜八番間は現在も京阪バスが運行していますが、高殿〜野江神社前(現:地下鉄野江内代)間は現在も走っている路線はありません。 先述した通り計画当初は仁和寺まで伸ばす予定だったので実際に伸びていればどんな感じだったのか気になるところです。

では👋