マツダ交通の見たまま

主に大阪シティバスの小ネタや歴史をディープに掘り下げる考察系ブログです。

【大阪シティバス路線の歴史04】36号系統と近鉄バス路線(後編)

こんにちは。 前作のつづきです。(読まれてない方はこちらから↓) https://matsuda-kotu.hatenablog.com/entry/2024/12/23/083000

36号系統と密接な関わりを持つ近鉄バスのお話を前編にて紹介しましたが、その先の話を紹介していきます。

縮小しはじめた近鉄バス

[36号系統として走る市バス(提供: 市場氏先輩F氏)]

[特36号系統として走る市バス(提供: 市場氏先輩F氏)]

[1974年頃の路線図]

路線図を見る限りかなり賑やかなものになってきました。

1970年1月11日の御堂筋や堺筋などの幹線道路の一方通行化に伴う改正で、36号系統と特36号系統の飛び石急行運転を廃止。臨特36号系統(存在時期不明)の廃止。 臨36号系統(東野田〜安田)の新設がありました。(後に京橋駅前〜安田に短縮) 36号系統もこの時期に鶴見町から安田まで延長します。 近鉄バスに関しても幹線道路の一方通行化を期に内本町バスセンター及び本町バスセンターが廃止となり、以前の天満橋までに短縮することになりました。

1974年9月には近畿日本鉄道自動車局 東野田営業所を廃止し、梅田・天満橋〜住道方面の拠点は鶴見区(1974年7月に城東区から分区)にある茨田営業所のみとなりました。 東野田営業所があった場所はしばらくはバスの待機場として利用されました。

1977年4月10日の再編成で136号系統(大阪駅前〜住道駅前)が廃止となり、結果的には15年ほど前に近鉄側に梅田への乗り入れを許した代償のみが残るだけになってしまいました。

[森之宮営業所の車両も走っていた(提供: 市場氏先輩F氏)]

ゾーンバス制度の開始と浜バスターミナル

[1980年頃の路線図(近鉄バス天満橋バス停は2ヶ所存在し、市バス天満橋ターミナル付近と市バス京阪東口前に廃止直前まで存在した。設置時期は不明)]

1979年7月22日に大阪市営バスがゾーンバス制度(路線を幹線・支線と分けて車内の混雑を軽減し運行の遅延を無くすため)を実施しました。 またこの頃に南森町扇町西天満太融寺町と現在の経路に変更されました。

特36号系統は支線36号系統と幹線36号系統に分けられることに、また京橋駅から出ていた幹線特36号系統も運行していました。

1987年には浜〜安田間に浜バスターミナルを開設して、今まで中継箇所だった安田から浜バスターミナルへと移動され、

幹線36A号系統(大阪駅前〜浜バスターミナル)

幹線臨36号系統(京橋駅前〜浜バスターミナル)

支線36号系統(浜バスターミナル〜茨田大宮)

を運行していました。 ただ、浜バスターミナルは終日営業しているわけでなく昼間時(9時頃〜17時頃)のみの営業なため、幹線36号系統は安田まで、幹線臨36号系統は特36号系統(京橋駅前〜茨田大宮)までの運行となっていました。 [浜バスターミナルが存在した頃の周辺路線図(1988年5月当時)]

[支線36号系統として茨田大宮付近を運行する市バス(提供:市場氏)]

1990年に近づくにつれて地下鉄鶴見緑地線(後に長堀鶴見緑地線)の建設や花と緑の博覧会を控え、鶴見より西方向の道路の拡幅工事などが行われるようにより、近鉄バス側にとっては近畿日本鉄道自動車局 茨田営業所を廃止、新たに東大阪市稲田営業所を開設させました。 諸口発着の路線も浜南口に操車場(浜充電所、近鉄モータース工場などを経て)を開設しました。茨田営業所があった場所は後に駐車場と鶴見検車場となっています。

[浜南口行きの近鉄バス(提供:市場氏)]

[便数の多かった産大行き(提供:市場氏)]

[梅田行きの近鉄バス(提供:市場氏)]

[生駒聖天行きの近鉄バス天保山行きの市バスが梅田新道で別れる(提供:市場氏)]

1980年代の近鉄バスの行き先は主に梅田からは産業大学前(天満橋発もある)、生駒山上、生駒聖天(正月などの臨時運行のみ)、近鉄奈良駅前(便はごくわずか)とあり、天満橋からは住道駅前や朋来(ほうらい)住宅などが出ていて豊富でした。さらに市営バスの路線も走るわけですから当時はものすごい数のバスが走っていたことがうかがえます。

※1980年当時の梅田~産業大学前の便は1日で106回も運行していた。

ゾーンバス末期と近鉄バスの衰退

[1991年頃の路線図]

1990年に鶴見緑地線が出来たことで横堤バスターミナルが開設。それにより市営バスの浜バスターミナルは廃止されました。(廃止後しばらくは安田発着便のバス待機場に転用) 近鉄バスも一時期は横堤バスターミナル発着路線が存在していました。 特36も京橋駅前発でなく大阪駅前発になりました。 [1991年当時の特36と幹36の時刻表、早朝には今福西四丁目~大阪駅前(幹線36A号系統)が存在した。なお、かつては蒲生四丁目行きも存在。]

[蒲生桜小橋付近を駆け抜ける特36(提供:市場氏)]

1994年に幹36は廃止。 1997年には長堀鶴見緑地線門真南駅が延伸開業した影響で特36と支36は茨田大宮から地下鉄門真南まで延伸します。

[地下鉄門真南延伸後の路線図(1999年10月当時)、延伸当初は既設の茨田大宮〜茨田大宮中間の循環線も存在していた。]

近鉄では、1999年に近畿日本鉄道自動車局の路線を引き継ぎ近鉄バスとして運行を開始します。また、この頃に阪奈生駒線などの縮小で近鉄奈良駅行きなどの路線などが廃止されることとなり、かなり寂しいものとなりました。

[この頃には数本だけ大阪駅北口行きが存在した] [2006年頃の梅田駅周辺地図。大阪駅北口バス停は梅田貨物駅南口にあったが、停留所どころか貨物駅すらも今は無い]

ゾーンバス終了後と近鉄バス路線の最期

[ゾーンバス終了後の36号系統(提供:市場氏)] [近鉄バス新塗装で運行する梅田行き(提供:市場氏)]

[2012年頃の路線図]

2002年1月27日に大阪市営バスがゾーンバス制度を廃止したことで、特36号系統と支線36号系統を統合して新たに36号系統が開設。 安田止めの36A号系統も新たに運行していました。 2006年には36A号系統が廃止。(安田バス停ロータリー及び、浜バスターミナル用地の駐車場が解体)全便が36号系統として運行しました。 2010年頃に地下鉄門真南〜茨田大宮の循環線を廃止し経路変更、2012年には地下鉄門真南〜茨田大宮間に三ツ島南バス停が新設。2013年には横堤バスターミナルが廃止され、横堤バスターミナルは地下鉄横堤と改称します。

近鉄バスは依然として縮小し、大阪駅北口も廃止、産業大学前行きや住道駅前(駅北口)、生駒登山口行きもしばらくはあったものの2014年ごろまでには廃止となっています。(住道に関しては2000年代にJR住道(南口)行きが新たに開設) 浜南口にあった折り返し場も廃止され、浜南口から南に新たに稲田車庫前までに至る路線が開設されました。

[浜南口おりばがあった名残の標柱]

[2014年頃の路線図]

このあとも近鉄バスの減便が進み、とうとうJR住道行きが山の日(8月11日)のみの運行となり1度だけ走りました。 稲田車庫前行きも土曜日1便のみの運行と相当苦しい減便となりました。 [2016年当時(減便前)桜の宮橋の時刻表(提供:モザ氏)] [減便を知らせる案内]

[土曜1便のみとなった梅田~稲田車庫]

[晩年の梅田行き(提供:モザ氏)]

[路線の休止を知らせる案内]

そして、2017年3月25日をもって梅田から稲田車庫・住道方面に至る路線が休止。 約76年ほど歴史のある路線はここで1度幕を閉じます。とはいえ廃止でなく「休止」という形で現在も一部のバス停には未だに近鉄バスの標柱が残されています。(八ヶ新田は2016年に廃止)

大阪市営バスが2018年に民営化し、大阪シティバスになってもなお36号系統は特に変化は無く走り続けています。

まとめ

いかがでしたでしょうか?

36号系統を紹介していきましたが長い歴史なためと近鉄との深い関わりの話があってか一つの記事では収まらない量なため前編・後編と分けさせていただきました。 ちなみに近鉄バスと市バスの路線が共にあった頃は運賃方式が近鉄バスは整理券制、市バスは運賃均一制だったため乗り比べをするのに面白いものでしたが、今や大阪シティバスのみが走るだけとなってしまったので寂しい限りです。

他社路線バスが絡む路線には色んな背景があり、延伸に関しても何かしらの意味があったりするのがこの36号系統に詰め込まれていたと思います。

では👋

【大阪シティバス路線の歴史04】36号系統と近鉄バス路線(前編)

お久しぶりです。 今回は大阪シティバス路線の歴史をたどるシリーズ第4弾。 36号系統について紹介していきます。

どんな路線か?

[右に伸びる緑色の路線が36号系統]

36号系統は大阪駅から京阪国道(国道1号線)、府道8号線(通称:鶴見通)を沿って大東市内へ、そこから大阪市の茨田大宮地区の住宅街を縦断し門真市内にあるOsaka Metro長堀鶴見緑地線門真南駅までをむすぶ路線で、沿線には造幣局京橋駅鶴見区役所・警察署、鶴見緑地(南側)、東和薬品RACTABドーム(旧:なみはやドーム)があります。 また、先述の長堀鶴見緑地線の京橋〜横堤駅間は36号系統と重複して運行しているにも関わらず、利用客はかなり多い路線です。

また、大阪駅前〜安田間(厳密に言えば茨田東小学校前バス停手前)までは近鉄バスの10番、11番(梅田〜JR住道)などと並走していた時期があります。 そんな近鉄バスの歴史も交えつつ36号系統を紹介していきます。 なお、近鉄バスの名称としては前身の大軌バス、近畿日本鉄道自動車局が出てきますが、これらは全て今の近鉄バスだと考えて見ていただければ幸いです。

戦前から存在した36号系統と未成線

[1941年春頃の路線図(近鉄バス東野田町四丁目〜鶴見町間の停留所名が不明なため省略)]

36号系統は1940年6月1日に市バスと長年の競争を繰り広げたライバル事業者の大阪乗合自動車(通称:青バス)の事業統合に伴い、多くの青バス路線を譲り受けることになったため系統番号の整理が行われ、18号系統(阪急阪神前〜北今福(→蒲生町四丁目【現:地下鉄蒲生四丁目】)から36号系統に系統番号を変更したのがはじまりです。(系統番号変更時に北今福を蒲生町四丁目に改称)

実はこの18号系統も元は1935年に開設された10号系統(旭郵便局前(後の北今福(上述))〜島屋町)が番号変更されてきたもので、この辺りは資料があまり無いので割愛させていただきます。

1940年12月11日には、近鉄バス(この当時は大軌バス)が蒲生町四丁目〜東野田町四丁目間を相互乗り入れの運輸協定を結んだことで36号系統は蒲生町四丁目から鶴見町まで延長。 1941年頃には新たに特36甲、特36乙、特36-1号系統が開設されました。 路線図を見てみると、本来なら西天満から寺町通り・太融寺町に抜ける経路でなく南森町から扇橋(現在の扇町)に抜けるのが当初の経路であったのがポイントですね。

大軌バス側は上記の運輸協定で河内線(後の阪奈生駒線などにあたる住道大橋〜東野田町四丁目間)の営業を開始。これは近年まで走った梅田〜JR住道間の起源にあたります。 また、現在の鶴見3丁目交差点(地下鉄今福鶴見駅)〜住道大橋(近鉄バス住道北口バス停付近)間は道路ではなく元は大阪電気軌道四条畷線という現在でいう近鉄未成線の跡で、工事凍結され完成していた路盤を道路に転用させてバスを走らせるという思い切ったことをしたわけです。なので大阪シティバスは今でも近鉄が敷いた未成線の道路を走行しているというわけですね。

話は逸れましたが、1940年代に入って太平洋戦争が開戦したことで物資や資源に困窮する時代に直面し、バス路線も特36乙号系統が廃止(特36甲号系統は特36号系統に系統変更)するなどの対応となりました。

大軌バスに関しては茨田町茨田浜町(現在の鶴見区浜にある葬儀場付近【元は浜南口バス停の折返し場】)に浜充電所を1942年12月に開設し、ガソリンを燃料とするバスの他に電気バスを走らせて営業していました。

終戦後と近鉄バスの延長

[1949年夏頃の路線図]

1945年には大阪大空襲による被害で多くの路線休止が余儀なくされ、特36-1号系統は休止(事実上の廃止)。36号系統と特36号系統は源八橋経由から南森町経由に変更されるも終戦時にも休止されることなく運行されていました。 近鉄バスも1945年5月頃にはまだ営業していました。(休止になっていたのかは不明)

1948年10月には特36号系統に中・後扉仕様の大型トレーラーバス(日野産業製)の運行開始して多くの乗客を輸送しました。 そして、36と特36を阪急阪神前から大阪駅前に延長し、ほどなくして特36号系統は廃止されました。

1949年には近畿日本鉄道自動車局(大軌バスから改称)が網島市場の北隣に東野田営業所を開設し、戦前に電気バス運行の役割を果たした浜充電所は1947年5月に廃止されます。(→1950年代にはバス待合所となっている) また、近鉄バスも中・後扉仕様のトレーラーバスを導入して東野田町四丁目〜寺川(大東市)間を運行していました。 戦後の大量輸送を行うにはもってこいのトレーラーバスですが京急バスの火災事故(1950年)などがあってか、あまり普及はしませんでした。(大阪市は1953〜1954年冬の間で全廃)

36号系統の延伸は近鉄の賜物?

[1959年6月頃の路線図]

経路図を見るといよいよ大阪市営バスも安田に延長しますが、この延長の背景に近鉄バスが絡んできます。 鶴見町より先にある安田は当時大阪市でなく、茨田町(北河内郡)という自治体であり、1955年4月3日に大阪市城東区編入合併されることにより大阪市営バスは茨田町地域方面に延長申請をしたところ近鉄バスは反対。 大阪陸運局を仲介して近鉄バスの市内乗り入れ路線の運行本数増と天満橋乗り入れの認可を飲む形で安田までの延長が認められ、1957年4月3日にそれぞれ延長し運行開始しました。

大阪市営バス 特36号系統を鶴見町〜安田間延長《大阪駅前〜安田》

近鉄バス住道線 東野田四丁目〜天満橋を延長

また近鉄バスは1959年3月1日に天満橋〜本町四丁目(本町バスセンター)へ延伸(寺川〜生駒山上開通に本町四丁目〜生駒山上の直通運転開始)、6月1日に生駒町〜奈良公園の開業で本町四丁目〜奈良公園間の直通運転開始とこの当時は大阪市内中心部から奈良市内まで行けるほどの距離にまで延長しました。

また、市営バスは近鉄バスの内本町バスセンター乗り入れの申請があった際に市営バス側も住道までの延長を申請しましたがもちろん反対。 ただし、「近鉄バスが梅田まで乗り入れさせてくれるなら許可する」と提案し市営バス側がそれを呑んだことで、1961年5月10日に近鉄バスは東野田から梅田まで延長(1日60回の運転)。大阪市営バスは新たに136号系統(大阪駅前〜住道駅前)を新設し運行を開始しました。(1日36回の運転)

つまり、市営バスの安田や住道駅の延伸は近鉄バス天満橋や梅田の延伸と大きく関わっていたのです。

1964年12月には市営バスが茨田(まった)大宮町まで延長することとなり、現在の大阪シティバス36号系統の形に近づいていきました。(近鉄バスも後に茨田大宮町方面に路線をのばしますが住道や梅田方面の路線とは関係の無い路線のため割愛させていただきます。)

と、これから先も話が長くなるので一旦ここで区切らせていただきます。

[1965年頃の路線図※東野田四~梅田の詳しい経路は不明(近鉄バス梅田バス停は日興ビル前に存在した)]

その他の出来事

市営バス

1964年 12月27日に特36号系統に「後ろ乗り前降り」の乗降方式に変更(次いで36号系統も66年までに「後ろ乗り前降り」方式に変更)

大阪シティバスの「後ろ乗り前降り」方式に関しては今では当たり前ですが昔は逆でした。 このような乗降方式を始めたのは特36号系統だったんですね。

1966年2月21日に特36号系統に飛び石急行(赤急行・青急行)設定 [ラッシュ時運転のみの設定でそれ以外は各停留所に停車する仕組み] [1966年開始時の経路]

現在の91号系統や70号系統の急行とは少し違います。 この飛び石急行という仕組みは朝夕のラッシュの混雑を緩和させる目的で設定され、停留所を一つ飛ばしで停車するスタイルでした。主要の停留所や起終点に近い停留所に関しては赤急行・青急行・普通(各停)どちらもが停車していましました。

近鉄バス

1965年7月 茨田営業所の開設

諸口(もろぐち)停留所前(大阪シティバス諸口停留所【門真南向き】から少し東側の位置にあった)に新しく茨田営業所が開設され、梅田〜住道間に既設の東野田営業所とあわせて2営業所も構える形になりました。(面積は東野田よりも圧倒的に広かった。)

停留所名は諸口のままですが、1980年には諸口発着の路線(近鉄八尾駅行き)も存在していました。なお、当時の諸口バス停は両側とも場所が違っており、茨田営業所閉所後(後述)の1993年頃に現在の位置になりました。

では👋

大阪市営バスがかつて走った「八番行き」ってどこ?

久しぶりのブログ投稿です。 それも、個人的に疑問だった話。 大阪市営バス豊中堺東駅に伸びていたという話は割と認知されている印象なのですが、「八番行きは知ってる?」と話すと「どこ?系統番号?」とあまり知られていないような気がします。 それも過去に何度かそういう経験があったので、今回はそれを題材にして紹介していきます。

さっそく本題に入りますが「八番」とはどこなのでしょうか?

[実際に走っていた八番行きのバス、古市営業所のいすゞBA30西工(資料提供市場氏先輩F氏)]

「八番」は大阪市内には無い

[実際の地図(1994年頃)、上部に八番の文字。] [八番行きがあった1967年当時の路線図]

「八番」という行き先は大阪市内には無く、守口市にありました。 というのも京阪バスを知られている方は既にピンと来ているかと思いますが、京阪守口市駅から北東にある、しかも現在も残る京阪バスの八番停留所の付近に存在していました。 この行き先を走る路線は130号系統のみで通称は庭窪線、大阪市外を走る郊外線として存在していました。

元々は八番よりも先で運行する予定だった

というのも、大阪市から外れた守口市が終点なので従来から京阪バスも運行しているため以前から今市(→地下鉄太子橋今市付近)を境界にして連絡運輸などの協定などが度々行われてきました。(京阪バスが八番付近を通るのは1931年9月から。) そして、近鉄バスの梅田乗り入れ(1961年) が実現したのを皮切りに京阪も1962年に相互乗り入れ協定の交渉を行い大阪市営バスは八番よりも先にある寝屋川市仁和寺まで乗り入れ(八番までの区間運行を含む)、旭区両国町(現在の清水小学校前付近?)から門真南口までの運行を提示、京阪バス天六を経由して梅田乗り入れ、旭区両国町から森小路町1(現:高殿)までの運行を提示という形をとり締結、免許申請を行ったところ府警本部が「大阪駅前の交通混雑が酷いのでこれ以上のバス路線の運行回数を増やすのは反対」という意向があり白紙となりました。

しかしながら、当初に市バスが運行していた守口車庫前よりも東にあった守口市(当時の32号系統の終点、京阪バス地下鉄守口バス停付近)から八番の間は家屋が多くあり、地元住民から路線延長の要望は依然としてあったことから再び京阪バスと交渉し、1963年12月1日に運輸協定を締結。路線延長申請の許可も得たことから、1964年4月15日に130号系統として大阪駅前〜八番の運行を開始しました。 また、担当は守口操車場(守口営業所内)で、庭窪線の定期券は守口営業所で購入する必要がありました。 (※運行回数は40回、1965年当時の大阪駅前終発時刻は21時25分だった。)

先ほど挙げた運行経路を見てわかるとおり、天神橋六丁目から守口方面は大阪メトロ谷町線区間と重複するようになっていますが、この当時はまだ谷町線すらありませんでした。 [1968年当時の大阪駅前のりば案内、駅前西1のりばに130号系統の乗り場が存在した。]

迫る谷町線の延伸、そして廃止へ

[1972年頃の大阪駅前のりば案内。130号系統は阪急百貨店前に乗り場が変更されている。]

先述したとおり、130号系統は地下鉄谷町線との経路に重複するように走っていたため、もちろん延伸と同時に縮小されていきました。

1977年4月6日、地下鉄谷町線の都島〜守口間が延伸されると4月15日に系統再編成が行われ、都島本通三丁目(現:地下鉄都島)〜八番に短縮されました。 [晩年の130号系統(1977年6月の路線図より)] [1973年当時の運賃表。1972年11月1日に大阪市営バスの料金が一律(大阪市内のみ)になっても130号系統など一部の路線は区間によって料金が異なっていた(いわゆる多区間系統路線)] [1977年当時の運賃表。]

そして、翌年の1978年7月1日の系統再編成で130号系統は廃止されました。

守口車庫前〜八番間は現在も京阪バスが運行していますが、高殿〜野江神社前(現:地下鉄野江内代)間は現在も走っている路線はありません。 先述した通り計画当初は仁和寺まで伸ばす予定だったので実際に伸びていればどんな感じだったのか気になるところです。

では👋

【大阪シティバス路線の歴史03】45号系統

こんにちは。 今回は大阪シティバスの歴史シリーズ第3弾。 45号系統を紹介しようと思います [諸口四丁目北に停車するバス]

45号系統は都島区にある総合医療センター前から住宅地が密集する関目・古市などの細い道を通って、鶴見緑地の北西から南西へ縫うように通り最後には鶴見区の諸口地区をグルッと一周する路線です。 主要な駅などといった場所はあまり通らないため、便数はそれほど多くありません。 (https://bus.osakametro.co.jp/sales_office/library/sales_office/20230401_moriguchi.pdfより) それではどのようにしてこんな路線の形になったのか紹介していきます。

実は意外と新しい路線

これまで56号系統や34号系統を紹介してきましたが、大体は1950年代と古めな路線がほとんどであり45号系統もそれらの番号の中に入るため同時期に作られた路線かというと実は違います。(あとで後述します) 現在の45号系統のルーツである支線45号系統は新森公園前~放出東一丁目として1979年11月5日に開設されました。元々の45号系統は大阪港〜境川肥後橋大阪駅前(1950年開設)という路線でしたが1969年頃に廃止され、しばらく「45号」は空き系統となっていましたが、1979年にこの路線ができた事で改めてこの番号が使われることになりました。

この当時から既に主要な駅などは通らず住宅などを通る地方系の路線となっていますね。 また「榎本小学校前」と、後で出る「放出大橋」は以前の28号系統(天満橋〜放出駅前・徳庵橋)、今津北三丁目は71号系統(西諸口【現:鶴見区役所前】〜緑一丁目)、今津橋はその両系統が通っていましたが1979年7月までには廃止になっており、同年11月の45号系統開設によって停留所が復活したことになります。 21号系統の東中浜公園バス停みたいなものですね。

1984年4月に特45号系統となり、起点を新森公園前より古市車庫前へと延長経路変更、放出地区でも経路変更が行われ、榎本小学校前方面には行かずに真逆の寝屋川大橋方面から放出住宅へと一周する経路になりました。この時に放出大橋停留所も復活することになります。 なお、古市車庫前〜新森二丁目は幹線区間、新森二丁目〜放出住宅前は支線区間でした。

1988年には途中区間の経路変更が行われ、鶴見商業高校前と鶴見緑地西停留所が新たに開設され緑四丁目へ北上する経路になります。 これにより緑中学校前は廃止になりました。 〈長吉長原東三丁目おりばバス停で使われている当時の鶴見商業高校前のバス停(現在残っているかは不明)〉 1994年3月31日の路線再編によって一部区間と重複していた支線26号系統(地下鉄都島〜新森七丁目東)と統合することとなり、特45号系統から再び支線45号系統として運行されます。(※)

また放出方面には行くことは無くなり、既に作られていた横堤バスターミナルに乗り入れすることになります。

※当初の支線45号系統は横堤バスターミナル~地下鉄都島という路線で、後に地下鉄都島から総合医療センター前に延伸されたという情報がありますが、こちらでは発見する事ができなかったため敢えて記述していません。もしご存知の方がいらっしゃいましたら、ご教示いただけると幸いです。

2002年のゾーンバス制度終了に伴って経路変更は行わないまま系統番号を支線45号系統から45号系統に変更されました。 2007年に花博記念公園北口停留所が総合医療センター前行きのみに開設されます。 2013年4月1日には横堤バスターミナルが廃止になり、構内に乗り入れられなくなったことで鶴見通沿いに「地下鉄横堤」と改称した上で移設。 2011年に廃止になった鶴見バス停〈北側〉(赤バス鶴見ループ〈イオンモール向かいに存在〉)を転用する形で復活、鶴見緑地公園前・鶴見区役所前の片側を廃止する形でループ運行となりました。 (当時の方向幕) しかし、この形も1年間しか存在せず2014年4月1日のダイヤ改正で経路変更となり、2013年に廃止された赤バスの路線である鶴見ループの今津諸口橋、諸口二丁目、諸口四丁目、諸口四丁目北を復活させる形でループ運行となりました。 これまで横堤バスターミナルがあったことで、今津橋方面までには行きませんでしたが、約20年ぶりに復活というわけです。 また、この際に総合医療センター前〜花博記念公園北口間の区間便として45A号系統が新設されています。

実際、他の路線とは違って歴史はまだ浅いですが、幾度の経路変更があるのは面白いと思い紹介させていただきました。

では👋

大阪市営バス懐かしの終点 布施三ノ瀬

お久しぶりです。 今回は大阪市営バスで2013年まで存在した終点。「布施三ノ瀬(ふせさんのせ)」について紹介していきたいと思います。

なぜこんな場所に?

Google マップ

布施三ノ瀬は現在12号系統が通る小路東五丁目バス停から東に行くと大阪府道172号線と交差し、そこから左に向けば小路東六丁目バス停がありますが、曲がらずそのまま直進し1つめの信号の手前に布施三ノ瀬のバス停がありました。 2013年3月末に廃止となっており、約10年経った今では跡地らしきものは見当たりません。 ところで、なぜこんな場所に終点があったのでしょうか?

[支所時代の布施三ノ瀬操車場]

実は布施三ノ瀬のバス停から南に行くと「布施三ノ瀬操車場」というのがありました。

簡単に言えば車庫ですね。 この操車場の存在が「布施三ノ瀬」が終点だったルーツになっています。

布施三ノ瀬の歴史をひもとく・・・

はじめて布施三ノ瀬にバス路線が来たのは今から100年近く前の1928年8月31日までにさかのぼります。 今里から東に進み岸田堂へ、そこから南下し八尾方面に向かう東大阪乗合自動車というバス会社が存在していました。 その後、後に大阪市営バスとのライバルであった大阪乗合自動車(通称:青バス)1932年5月に東大阪乗合自動車の路線を譲受しました。 その当時、「布施三ノ瀬」のバス停があったかどうかは不明ですが、1936年1月当時には布施三ノ瀬の車庫(当時は大阪乗合自動車 布施営業所→後の操車場)と、布施三ノ瀬のバス停が存在していたようです。 1940年6月1日に大阪乗合自動車が大阪市営バスに事業統合されると、布施営業所は大阪市営バスの営業所として引き継がれ、布施三ノ瀬停留所もこの時に大阪市営バスのバス停となりました。 また、当時の布施営業所は後の布施三ノ瀬操車場よりも建物の南側や道路の向かい側にも敷地が存在しており、約2倍の広さでした。

〈青バス統合間もない頃の布施三ノ瀬周辺の路線※1945年8月までには全路線が休止(実質上の廃止)〉

戦後は布施営業所が一度閉鎖したもののすぐに再開し、1957年9月に生野営業所へ移転するまで使われていました。 生野営業所へ移管されたあとは布施営業所は廃止となり、布施三ノ瀬操車場として転身します。あくまで操車場だからなのか、この頃には敷地が約半分になったようです。 当時の布施三ノ瀬発着路線は1979年まで20号系統と21号系統が乗り入れていました。 〈1976年当時の路線図〉

ゾーンバス制度による路線変更と布施支所

ゾーンバス制度が始まったことで20号系統は廃止し、21号系統は幹特21号系統(特21号系統に番号変更した後、1984年に廃止)になりました。 〈1981年当時の路線図〉

1980年7月には特12号系統(あべの橋~布施三ノ瀬)が新設し、これが後に現在の12号系統の形になります。 [特12号系統の方向幕]

1981年3月には布施から移転された生野営業所が閉鎖になったことで、布施三ノ瀬操車場にも動きがあり、翌月の4月13日には新たに東成営業所布施支所として開設されます。 しかし、1987年5月31日に閉所となり再び布施三ノ瀬操車場に戻りました。

バス停、操車場もろとも廃止へ…

〈1994年当時の路線図〉 〈2008年当時の路線図〉 〈2013年4月当時の路線図〉

布施支所が閉所した後も布施三ノ瀬操車場として機能し、布施三ノ瀬発着路線も晩年には12号系統のみとなっていました。 2013年4月1日のダイヤ改正で長きにわたって存在してきた布施三ノ瀬操車場は廃止、布施三ノ瀬停留所も廃止になりました。

布施三ノ瀬が終点だったのは事業者をまたいで存在した操車場の存在が大きかったのかもしれませんね。

では👋

豊中の街を走った大阪市営バス

こんにちは😃 大阪市営バスがかつて豊中市に乗り入れていたことはご存知ですか? Twitterなどでたまにですが「豊中まで市バスが走っていた」という事を話されているのを見かけます。 今回は市バスが豊中に乗り入れていた路線を紹介していこうと思います。

豊中 [起点の大阪駅前を出発する市バス(資料提供:市場氏先輩F氏)]

豊中線は1960年4月20日に開設された路線で、あべの橋より、なんば、大阪駅の主要ターミナルを回って淀川・神崎川を超えて豊中駅までに至る路線です。系統番号は111号系統として運行していました。 [開業当時の経路]

主要ターミナルの乗り場

あべの橋(豊中方)「アポロ座前(現:アポロビル前)」

・なんば(豊中方)「新歌舞伎座前(現:ホテルロイヤルクラシック大阪前)」

・なんば(あべの橋方)「南街会館前(現:なんばマルイ前)」

大阪駅前(豊中方)「駅東口(現:34号系統乗り場付近)」

大阪駅前(あべの橋方)「阪急百貨店前(34号系統乗り場付近の向かい側)」

大阪駅前に至ってはロータリーには入らず国道176号線を沿うだけになっています。 また、豊中停留所の乗り場・降り場ですが豊中駅バスロータリーには入ることなく少し離れた豊中本町南交差点の東側にありました。 ここから先の右側に豊中駅東第2駐車場がありますがそちらが市バスの転回場だったようです。 [豊中駅付近を走る市バス(大阪のあしより)]

路線の変遷

そもそも豊中線が出来た経緯としては、豊中市から大阪市内への交通手段は阪急宝塚線と阪急バスのみであり、ラッシュ時においては相当混雑するため他の交通手段を設置して改善を成したかった豊中市大阪市に対して大阪市営バス豊中方面への延長要請があったことが始まりでした。大阪市は1953年11月に豊中市への路線延長の免許申請を行い、後に聴聞会・公聴会が開かれました。 しかし、経路が重複する阪急バス側の反発と豊中バス(阪急とは全く無関係の新規会社)の申請があったことで協議が難航しました。結局は豊中バスの申請は棄却し、阪急バスの要望事項(市バスの運行本数制限・阪急バス梅田乗り入れ本数を30本増加)を合意する形で、豊中まで1日30回以下での制限付きの運行が実現しました。 郊外路線(他区間系統)だということで、市内線(当時は区間制のため111号系統の市内線は大阪駅前停留所を境に1区は15円、2区は30円)とは別に郊外線料金というのが取られるようになり、新三国橋〜服部または服部〜豊中は10円、菰江〜豊中は15円でした。

路線の短縮、そして廃止へ… 1969年末頃には111号系統の大阪駅前〜あべの橋間が廃止され、豊中大阪駅前に短縮されました。阪急百貨店側にあった大阪駅前乗り場もこの際に廃止されました。 1972年になると十三西之町(現:淀川警察署前)付近の循環経路が新設されたことにより、39号系統(野田阪神前〜新高南通[後に新高一丁目に改称])と共に経路変更されました。

1973年9月、1974年1月には111号系統の減便を実施。 また1975年1月の経路変更では、111号系統が平日のみの運行となり、休日では新たに臨111号系統として大阪駅前(阪急三番街)〜豊中として運行されました。 しかし、2年後の1977年4月10日の系統再編成により111、臨111号系統と共に廃止になりました。 実際に1971年と1976年に取られた交通量調査では1976年の乗車人員は1971年の約1/6にまで落ち込んでいた事から同区間を走る阪急バスとの競合に屈することになったのでしょう。 [大阪市営バス豊中線と競合した阪急バス阪北線]

しかし、阪急バスも2020年10月5日のダイヤ改正により梅田〜豊中箕面を結んでいた13系統・63系統が廃止され、梅田(大阪駅)から直接には豊中へ行けなくなったことで豊中線に関連した路線も全て消滅してしまいました。 大阪市営バス豊中線はこのような背景があったのです。

伊丹線 続いては伊丹線です。 野田阪神前から国道2号線西淀川区歌島橋交差点まで北上し、大阪府道10号線より加島、大豊橋を経て名神高速道路の豊中IC付近までに至る路線です。1965年11月13日に開設された路線で系統番号は112号系統でした。 しかし、路線名が伊丹線であるにも関わらず終端は豊中市の南側とあって全く「伊丹」と関係が無いのに…と疑問を感じませんか? 実は豊中インターチェンジより先に延長する予定で命名されたのです。

路線の変遷 [今はなき日本急行バスの路線図]

伊丹線が出来た背景にあるのは1965年7月1日に名神高速道路が全通したことに伴って日本急行バスや国鉄バスが運行する名神ハイウェイバス神戸系統の「名神豊中」停留所の乗降客が増加したことで、名神豊中(豊中IC)から大阪市内へのアクセス路線設置の要望がありました。 そこで大阪市は歌島橋より加島・豊中インターチェンジを経由し、将来的には大阪空港まで延長する路線の計画を立てました。つまり伊丹線の「伊丹」はこの最終延伸地の大阪空港を指していたのです。伊丹市にまで乗り入れていれば大阪市営バス史上初の県外をまたぐ路線でありましたが、そちらは実現することはありませんでした。 また、大阪市営バス伊丹線を開設するにあたって阪急バス自体も元々は千舟橋(大阪シティバス大和田三丁目北バス停付近)から加島に至る路線(千舟線)を持っており、府道10号線は経由せずに狭隘な道を経由していました。 そこで、大阪市営バス伊丹線開設を申請した際に阪急バス千舟線の府道10号線への経路変更と加島以北の系統新設を市バス側が認可することで伊丹線(野田阪神前〜豊中インターチェンジ)の開設が実現したのでした。 豊中インターチェンジの乗り場の正確な場所は不明ですが、阪急バスにもかつては「名神豊中」バス停がインターチェンジ脇に存在していたのでその付近かと推測します。 また、こちらも豊中線同様に郊外線料金が設定されていました。(開業当時の加島町〜豊中インターチェンジは20円)

豊中市乗り入れ撤退とその後

1974年より日本急行バスをはじめ、国鉄バスなどの名神ハイウェイバスの神戸方面の路線休止が相次ぎ乗降客数が激減したのか1978年7月1日の系統再編成により、112号系統は豊中インターチェンジ〜加島を廃止し、加島からは神崎橋を終着とする経路に変更されました。豊中市への乗り入れはこの112号系統の撤退をもって無くなりました。

1979年7月22日の系統再編成では、ゾーンバス制度(幹線・支線路線の乗り継ぎ制度)が出来たことで112号系統は幹線112号系統として運行することになります。 1981年3月3日に歌島橋バスターミナルが開設された時には幹線112号系統は支線94号系統に番号変更され、歌島橋バスターミナル神崎橋に短縮・変更されました。 そして、1997年3月8日にJR東西線加島駅が開業した際のダイヤ改正で支線94号系統は廃止となりました。 阪急バスに至っても加島駅が出来たことにより千舟線の加島〜千舟橋間が廃止され終点を加島駅前に変更。その後は阪急岡町〜加島駅前として運行していたものの、2014年には千舟線自体が廃止となり、大阪市営バス伊丹線と関連する路線は今はありません。 つまりは豊中線、伊丹線はどちらも阪急バスとの深い関係があったのでした。

豊中線や伊丹線はそれぞれの需要があって出来た路線であり、阪急バスとの関係を持ちながら運行してきました。実際に豊中線では、「あべの橋豊中」と現在の最長路線である73号系統(なんば〜出戸バスターミナル)を大きく上回る超ロングラン路線でもありました。伊丹線に至っても大阪空港まで延長していれば市営バス初の県外をまたぐ路線でもあったわけで両者とも過去を見るととても魅力的な路線だったと感じます。

では👋

【大阪シティバス路線の歴史02】34号系統

こんにちは。久しぶりの投稿になります。 さて、今回は大阪シティバス路線の歴史、第2回目になります。 それもシティバス屈指のドル箱路線である34号系統の歴史を見ていこうと思います。

34号系統とは?

[34号系統の運行経路図] 時刻表検索|Osaka Metro

34号系統は大阪駅前から豊崎を経由して天神橋八丁目、そこから毛馬橋で旧淀川を越えて北上し、旭区北部を突き抜けながら守口市にある守口車庫までに至る路線です。 大阪駅から守口方面に向かうのですから地下鉄谷町線の東梅田~太子橋今市(区間)を並行して走るのかと思えば、実は谷町線の走る区間よりも北の経路を走っていることになりますね。 またこのバス路線は一番売上高が高い(いわゆるドル箱)路線として存在し、朝ラッシュであれば8時台の守口車庫行きは27本、7時台の大阪駅前行きは29本と約2分ヘッドで運行するバス路線です。もはやバスのダンゴ運転ですね笑

34号系統の歴史

それでは本題に入っていきます。 34号系統は1953年12月15日に開設された路線です。 とはいえ、実は1940年には既に34号系統が存在しており、経路が天神橋筋六丁目~なんば経由元町二丁目(1941年9月1日になんば~元町二丁目間の区間休止に伴い、なんばに短縮)とあるため本当のルーツはこの辺りになるのですが資料が少なすぎるため割愛させていただきます。🙇‍♂️

また1945年の終戦時にはこの34号系統は走っておらず休止になっていたため1953年に開設された際には新設というよりも〝路線が復活した〟という認識で見ていいのかと思います。 さて、話は戻しますが戦後に開設された34号系統は、現在の経路と比べてみてどうでしょう? 全くもって今の経路とは別物ですよね笑

当時は天神橋筋六丁目から扇町付近を通り、曽根崎警察署の辺りから下へと御堂筋を沿って難波に至る路線なんです。ちなみにこの路線は寄り道をして大阪駅前のターミナルに入ることはありません。終点の難波は新歌舞伎座前に乗り場があり、起点の天神橋筋六丁目には天六操車場(→現在のOsaka Metro 天神橋筋六丁目ビル付近)が存在していたのでそこから出ていたのだと推測します。

1956年に入ると34号系統は太子橋(現:地下鉄太子橋今市)まで延長されます。 補足ですが、阪急阪神前~太子橋間では1953年に開設した58号系統(大阪駅前~太子橋)と路線が重複するため、34号系統が太子橋まで延長した際には並行して走っていましたが翌年には廃止になっています。58号系統はわずか3年と短命な路線でした。

1969年4月には特34号系統(大阪駅前~守口車庫前) が開設されます。※1

これは大阪市電の守口~阪急東口間が1969年3月31日をもって廃止になることに伴い、代替として作られた路線です。現在の34号系統と結構近いような感じがしますよね~😯

またこの時の大阪駅前行きは、またしても駅前ターミナルには入ることなく都島通沿いにあるOSビル下にあった「阪急東口」バス停が終点でした。 しかも阪急東口が終点であったのに対して、行先方向幕は大阪駅前で設定されていたようです。

※1:一時期は急行運転も行っていた。

翌年1月には御堂筋が一方通行化されてことに伴って34号系統の阪急阪神前(大阪駅前を経て曽根崎警察署前に改称)~なんば間は行けなくなり、大阪駅前(現:曽根崎警察署前)~太子橋と短縮されました。さらに特34と合わせて、天六大阪駅前間はループ運行という形になりました。 [1974年当時の大阪駅前のりば(赤線で表しているのは34・特34号系統の順路)]

当時の地図を見てみると富国生命ビルの上隣のバス停が阪急東口、下隣のバス停が大阪駅前(現:曽根崎警察署前)になります。このようにターミナルには入らず駅前付近をぐるっと回っていたのです。

補足ですが、同じく1970年1月に臨34号系統(なんば~大阪駅前)、臨34A号系統(なんば~天神橋筋六丁目)、臨34B号系統(太子橋~大阪駅前)が廃止(新)臨特34号系統(太子橋~大阪駅前)が開設されました。※2

また、1974年当時の区間便では、(新)臨34号系統(大阪駅前~太子橋[1977年4月廃止])がありました。

※2: 1974年の系統一覧には臨特34号系統が「大阪駅前~守口車庫前」とあるので70年~73年にかけて太子橋より延長している。

1977年4月には天神橋六丁目~(中崎町経由)大阪駅前間が廃止となり、これに伴って34号系統が廃止されます。また、特34号系統も上図のようにループ運行を辞めて天神橋六丁目~扇町経由大阪駅前に変更しました。

翌1978年当時の区間便は、臨34A(都島本通三丁目~守口車庫前)、臨特34(天神橋六丁目~守口車庫前)がありました。(⇒どちらも1979年までに廃止)

1979年7月に入るとゾーンバスシステムが導入され、特34号系統が幹34号系統として系統変更が行われました。また、この際に経路変更が行われ、ほぼ今の形となりました。 [1982年当時の大阪駅前のりば]

[1983年当時の大阪駅前のりば]

元々の大阪駅前のりばはこのような場所にありましたが、(旧)大阪駅前バスターミナルが1983年5月1日に開設されたことにより、のりばが整備されて3番のりばに発着するようになりました。また、1997年に34号系統がリフト付きバス運行路線になった際には3番から4番のりばに変更されました。(この際に従来の4番のりばに発着していた幹57号系統は3番のりばへ変更。いわゆる2路線同士での入れ替えがあった。)

2002年にゾーンバスシステムが廃止となり幹線34号系統が34号系統になりました。 その際の経路変更はありませんでした。

[2008年当時の大阪駅前のりば] 2008年になってから再度乗り場が変更され、今のような乗り場とほぼ近い2番のりばに移設されました。 [当時の乗り場]

[奥に見えるバスシェルターが34号系統の旧乗り場]

[2018年当時の大阪駅前のりば]

2016年10月には大阪駅前のバスターミナルが再度リニューアルされたことにより乗り場が変更、もともと3番乗り場だった付近の場所に新たに9番のりばとして34号系統専用ののりばが出来ました。

そして、現在に至ります。


いかがでしたか。 当初の34号系統は難波から天六方面へと行くのが始まりだったんですね。 それに、その後の難波~太子橋を運行するとなるとかなりロングランな路線ではないでしょうか笑 それ以降も変更を何回かしながら今のような路線になったのですね~😌

では👋