こんにちは😃
ところで、大阪市交通局が行ってきた日本初といえばなんでしょう?
今は亡き路面電車事業だと日本初の路面電車(大阪市電)の運行や地下鉄だと日本初の公営地下鉄(大阪市営地下鉄)の運行、喜連瓜破駅で日本初の地下鉄エレベーター設置などありますが…
大阪市営バスに関しては日本初のワンマンバスの運行があります!
今回は大阪市営バスのワンマンバスについて話していきたいと思います。
[緑木検車場にて、箱型のワンマンバス]
そもそもどこで走ったのか?
日本初のワンマンバスの運行は1951年6月1日に12号系統(今里~勝山通経由あべの橋)にて実施されたのが最初です。
時代の背景としては戦後になり、鉄道すら通らない、バスだけに頼る市周辺部の住民から市営バスの終発時刻延長の強い要望がありましたが、当時の大阪市営バスの車両というのは運転手と女性車掌が乗るツーマンスタイルとなっており、車掌は整理票の発行(←後述)や乗車券の手売り販売、車内アナウンス(テープレコーダーやマイクの設備は無し)などの業務では欠かせない存在でありました。ただ、終発時刻延長というのは当時の労働基準法では女子の深夜業の禁止(第64条の3)がされていたために、女性車掌は終発時刻(22時以降の運行)ができなかったので厳しい話でもあったのです。
しかし、アメリカではワンマン運行が先例としてあったのでそれを参考にし、ついに1951年6月1日に12号系統(今里~勝山通経由・あべの橋)にて車掌を無くしたワンマンバスを6両で運行したのです。この12号系統は現在のあべの橋~大池橋経由・布施駅前の大昔の形となっています。
また、続けて1952年2月20日には30号系統(今里~蒲生町四丁目経由・守口車庫前)で運行されました。
当時のワンマンバスには前面の行先方向幕の上部にも幕が設置され『ワンマンカー』の文字が書いており、料金箱、釣り銭機、降車用のベルボタンが設置。さらには出入口扉も1つから2つに増やされました。ただこの時には『前乗り、後降り』そして、料金先払いという方式で行われました。導入時には乗客もどちらから乗ればいいのか分からずに困惑する方もいたそうですが、ワンマンバスという存在が珍しく大変人気を博したそうです。
話はそれますが、厳密に言えば大阪市営バスでの呼称だと『ワンマンカー』になるのですが、由来は運転手と車掌の2人業務をOne Man(ワンマン)で行うこと、当時の内閣総理大臣である吉田茂のニックネーム、ワンマン宰相の『ワンマン』がユーモアな感じを与えていたことからそう名付けられたようです。
つまりはコンダクターレスの運転手は2人力といったところでしょうか、どちらにしろ負担は大きいでしょうね~
閑話休題…
かといって、1951年以降にワンマンバスのみが導入されたわけではなく、ツーマン仕様のバスの導入もされていたのです。また、ワンマンバスの導入とはいえども当時はボンネット型の車両であり、箱型の導入はもう少し先の1959年になってからで方向幕上部にあったワンマンカー幕の文字も下図のように系統番号横に収まるようになりました。
[ワンマンカーからワンマンと表記]
さらなる問題に…
大阪市営バスのワンマンバスの運行は京都などの他都市に影響を受けるほどではありましたが、実質上では乗客密度が低いこと、1区間の路線(まだ当時は区間制)、交通混雑の少ない路線とで限定されていたために市内での普遍的な浸透というのはまだまだといったところでした。
そこで「昼はツーマン、夜はワンマン」という運行するというワンツーマンバス(こちらは前・中引扉)を2両試作し1961年に運行を開始しました。またこの頃には既にあのゼブラバスが走っていたのでツーマン、ワンツーマン、ワンマンと区別をさせるために車両に帯を塗り込んで色分けしていました。
- ツーマン→クリーム帯
- ワンツーマン→青帯
-
ワンマン→赤色
[大阪のあし№24より、クリーム帯・青帯・赤帯の車両が集結※古市営業所にて]
このワンツーマンバスの成功によって翌年には増車をし、終発時刻を1時間(23時台)も延長することに成功したのです。もちろん経費節減という利点もこのバスの登場でさらに大きくなりました。
オールワンマンカーの加速
ワンツーマンカーの登場の頃には既に高度経済成長真っ只中(岩戸景気やらオリンピック景気やら…)であり、デパートなどの第三次産業の発展が顕著になったことで労働環境が厳しい女性車掌の新規確保が難しくなったために車掌を廃して全車ワンマンカー化を進める方向になり、自動的に釣り銭の出る料金箱の改装(1966年5月から、同年12月にはツーマン車両にも導入)や回数券の自動発売機の設置(1966年5月7日導入)という機械化が順々と行われました。
特に画期的であったのは、他区間系統路線(→特に1区、2区と料金の異なる路線)では車掌が整理票(→整理券)を乗客に手渡ししていたのを整理票自動発行機という機械で行いました。1964年12月27日に特36号系統(大阪駅前~安田経由・茨田大宮町)で運行され、同時に『後乗り・前降り』そして料金後払いというスタイルをこの路線で実施したのです。これは乗降の円滑化を図るためでもありました。
続けて、36号系統(大阪駅前~鶴見町[ワンマンカー運行時期不明])や27号系統を初めとする4系統[下図]で『後乗り・前降り』を実施することになり、好評であったので1967年9月にはワンマンバス全車両で実施されました。その時には既に停留所呼称などを行う自動ストップテーププレーヤーやインターホンも設置されており、行き先等の問合せも運転手が対応することになりました。[後乗り・前降り系統増設のお知らせ]
1960年代後半にかけて普通券・回数券の手売り廃止など車掌の業務も徐々に縮小されていき、1971年には念願の全車ワンマンカー化が達成されました。もはや全車ワンマンカーなので赤帯の意味も成さなくなり、それが直接的な理由なのかは不明ですが1972年からはゼブラバスの塗装も変更(晩年の大阪市営バス時代の旧塗装)となり、一気にツーマンという時代が遠のきました。
まとめ
[ゼブラバス復刻塗装車両(公営時代)]
日本初のワンマンバスの導入というのは、正直に言えば聞いてもそんなにパッとしない感じがするもののこのワンマンカーがあったからこそ、『後乗り・前降り・後払い』になった。終発時刻を遅くすることができた。業務の機械化での人件費削減に繋がった。といった成果があったのでけっこう革新的で画期的な存在だったんだなと私はそう感じております。😅
現在の大阪市営バスもとい大阪シティバスでは、ワンマン化どころか全車ノンステ化も達成していますが、少し時代を逆行してゼブラ塗装を復刻した車両が走っております。この復刻塗装にも引き継がれている〝赤帯〟もこの記事を閲覧されてはもうお分かりのはずでしょう。笑
外装のみならず内装も凝ってて面白いので見つけたら乗ってみてください…
では👋