マツダ交通の見たまま

主に大阪シティバスの小ネタや歴史をディープに掘り下げる考察系ブログです。

大阪市営バスの電気バス、あおぞら号。

こんにちは😃

最近は水素バスやらバイオディーゼルバスなど色んな環境に配慮したバスが増えました。特に電気バスに至ってはBYD社のがよく見かけます。

大阪シティバスには未だ海外製の電気バスは導入されていないのですが、市営バス時代にはかつて電気バスが運行されていました。

その名もあおぞら号

f:id:Matsuda_KOTU:20210924165149j:image[大阪22あ *477(1972年式) いすゞEU05]

 

大阪市営バスでは1972年4月1日にこの電気バスを2台導入しました。あくまで実用化試験という名目であり、車番は大阪22あ *476大阪22あ *477でどちらもシャーシがいすゞ、ボディは川崎重工業(前側のタイヤすぐ後ろにエンブレムがある)で、九条営業所に導入されました。

 

大阪市営バスの電気バスはこのあおぞら号が初めてではなく、既に戦前の頃から戦時中のガソリン規制の影響を受けて代燃車を確保するために1937年8月に導入され、最盛期には青バス(大阪乗合自動車)から移譲されたバスも含め、60台ほどが運行していました。しかし、終戦後にはガソリン車が復活し、新たにディーゼル車が導入されたことで1951年には全廃されました。

f:id:Matsuda_KOTU:20210924174442j:image[当時の電気バス]

なぜ製造されたのか?

電気バスの導入に踏みきる2年前の1970年頃には道路を走る自動車が増加し騒音や排出ガスによる大気汚染が社会問題化しました。しかし、大阪万博から脚光を浴びた電気自動車の注目が高まり、1971年通商産業省(現:経済産業省)が電気自動車を大型プロジェクトとして取り上げられるほど。

その背景があって電気バスを復活させる動きがありました。

f:id:Matsuda_KOTU:20210924170313j:image[バス全長9.2m、定員70名]

車両には御堂筋線10系などでも採用されたサイリスタ・チョッパ制御を採用し滑らかな運転ができる上、電力消費を少なくする努力もされています。

 

実際はどうだったのか?

九条営業所に配置後は主に88号系統(大阪駅前~大阪港)などで運行し、当時は再開発された中では初めてとなる大型電気バスとなったため内外からの見学者が相次ぎ電気バスに対しての関心が高まりました。

1974年10月には九条営業所の自動車車両工場の移設の絡みで2台とも春日出営業所に転属。79号系統(大阪駅前~桜島駅前)などの路線で運行していましたが、1982年3月にバスの耐用年数切れ全て廃車になりました。実用試験結果では総走行距離が50万km(地球約12周以上)を超えるという、当時の日本国内においては最も長い電気自動車企画の実績でしたが、本格的な採用には至りませんでした。

この電気バスの騒音性は無く、また排気ガスも出ない。乗り心地も良いといった三拍子が揃う反面、バッテリーの寿命で行動距離が制限されたこと、一般のバスと比べて経費が約5倍と高すぎるため限界があったものと思われます。

京都市交通局も洛西営業所が開設された1979年に三菱(ME460型)の電気バスを6台導入し、洛西エリアの団地輸送にあたっていましたが結局は坂道の多いためバッテリーの消耗が激しく、常時満員でも採算が取れないほどの維持費の高さで1987年には全車廃車され、『あおぞら号』よりも短い命でした。当時は電気バスも持つだけでこれだけの苦悩があったのですね。😌

電気バス引退から約40年。大阪シティバスも電気バスを導入することがあるのでしょうか?

 

では👋

大阪シティバスのバス停あれこれ記録帳

こんにちは😃

今回はバス停について〝あれこれ〟と紹介していきます。

 

大阪シティバスのバス停といえば…?

f:id:Matsuda_KOTU:20210906213945j:image[バスロケーション付き電照式型]

大阪シティバスの停留所数は路線図で見る限り目が痛くなるほどの数であり、その一つ一つにバス停が設置されています。市内中心部であればバスロケ装置の無いシェルター型が多く見受けられ、郊外になってくると比較的に電照式のものや簡易的な物が見受けられます。

最先端は広告付きシェルター型

f:id:Matsuda_KOTU:20210906065052j:image

上記のシェルター型は2000年代後半に設置が始まり、最近では停留所老朽化に合わせてこの型に取り替えられています。(福島区役所前・吉野など)

こちらは、バスロケシステムが無い代わりに電照式のものより大きい広告が付いており現在ではこのタイプが主流になりつつあります。

名古屋市営バスにもこれと似たようなタイプがありますね。

未だに数の多い電照式型

f:id:Matsuda_KOTU:20210906220810j:image[バスロケーション付き電照式型(上部の新喜多東と同タイプ)]

f:id:Matsuda_KOTU:20210906220950j:image[電照式型(こちらにはバスロケーションは無い)]

おそらく一番見かけるのはこの辺りでしょうか。濃緑色のバス停にはバスロケーション(バス待ちのイライラを改称するためにバスの現在地をキャッチして接近情報を知らせるシステムのこと)が搭載されています。しかし、白色のバス停には搭載されていません。

共通するものとしてはどちらも蛍光灯が内蔵されているため夜では明るく灯るので視認性は高いと思われます。

f:id:Matsuda_KOTU:20210906222408j:image[上本町六丁目バス停]

そもそも、このバスロケーション付きのバス停が導入されたのは1981年4月のことで上本町六丁目~住吉車庫前間で導入されました。関西では先に京阪バス枚方高槻線で導入(1980年3月)されているため1年遅れての導入となります。

よく見てみると…現在のモデルとでは少し違いがあるのが確認できますね。しかし1988年の野田阪神前~春日出車庫前(現:東島屋)・酉島のバスロケ設置時には現在のモデルの型になっているのが確認できました。この頃に変更があったのでしょうか。

これらの種類の他にシェルター付きのバスロケ停留所もあるのですが、別の機会で紹介します。😌

f:id:Matsuda_KOTU:20210906222603j:image[城北公園前バス停(1985年4月導入)]

簡易型

f:id:Matsuda_KOTU:20210907144943j:image

f:id:Matsuda_KOTU:20210907145623j:image

f:id:Matsuda_KOTU:20210907145817j:image[赤バス転用型]

簡易型は郊外部でよく見られるもので型は様々、上記の写真以外にも独特なバス停があります。

f:id:Matsuda_KOTU:20210907150247j:image[さらに古い型のバス停]

もっと前になると縦書き式のもので、導入されたのは1973年。現在はほとんど見られなくなりましたがバス停工事中に仮設されたバス停や、おりば専用のバス停に転用される形で残っています。

f:id:Matsuda_KOTU:20210907151214j:image[長吉長原東三丁目バス停おりば。鶴見商業高校前から転用]

 

見れたらラッキー!な行灯型

f:id:Matsuda_KOTU:20210907152249j:image[あべの橋バス停(撤去済み)]

大阪シティバスにはこのようなレトロなバス停も存在します。これは1973年に登場した「行灯型」と呼ばれるものです。

f:id:Matsuda_KOTU:20210907155206j:image[行灯型が普及する前のバス停]

1960年代後半には行灯型に似たバス停が存在していましたが、あまり浸透はせず木製の簡易型がほとんどであったので、この行灯型が登場してからは市内中心部をはじめ至るところに設置されました。

f:id:Matsuda_KOTU:20210907154301j:image

行灯型が主流の時代はこのように系統番号と時刻表、ご案内が掲載されていました。このあべの橋バス停にも、うっすらですが系統番号とご案内が残っていました。f:id:Matsuda_KOTU:20210907154616j:image[11、13の文字]

近年では地下鉄住之江公園あべの橋が撤去され、残るは2基と絶滅寸前。行灯型とはいえかなり古いものなので、夜間点灯はもうしていません。

残りの2基は割と大阪市内中心部にあるのでぜひ見つけてみてください☺️

 

過去にはこんなものも…

f:id:Matsuda_KOTU:20210907160726j:image

これは廃止した大阪市電路線のサイドポールをバス停に転用させたものです。当初は川口町(現:川口一丁目)~森ノ宮東之町(後の森ノ宮駅前【1979年廃止】)に設置されました。下の表示板はホーロー焼き付け、上の標識には蛍光灯が取り付けているなど、丈夫で夜間にも見やすいバス停であったようです。

 

さいごに

f:id:Matsuda_KOTU:20210907165755j:image

私がここで紹介したもの以外にも変わった型のバス停があります。が、これらは大阪市営バス時代に作られたものであり、実はシティバス独自といったバス停はまだありません。おそらく、ダイヤ改正による大規模な路線新設・停留所新設がなく、バス停設置の機会というのは劣化による交換ぐらいで大体は営業所内のストックで賄えているんだと私は考えます。(シェルター型は過去のものをそのまま新製した形でしょう)

大きな変更があったといっても民営化を控え、市バスマークを撤去するために簡易型であれば上からシールで覆ったり、電照式であればアクリル板を差し替えたりといった変更があったくらいです。

バス停も時代に合わせて進化しているので、次にどんなデザインのものが出るのか楽しみです。

 

では👋

大阪市営バスのゾーンバス制度って結局何だったのか?【後編】

こんにちは😃

今回は後編になります。

大阪市営バスのゾーンバス制度って結局何だったのか?【前編】 - マツダ交通の見たまま

↑前編はこちらからどうぞ

 

全地区でゾーンバス制度導入へ

f:id:Matsuda_KOTU:20210804142717j:image

平野・東住吉エリアでゾーンバス制度が始まった(1974年)ことで2年後に出戸バスターミナルが開設したのですが、実は経営難とあって進行中であった地下鉄延伸工事があるために頓挫せず何とか建て直したいという背景がありました。

そこで大阪市「ライド・アンド・ライドシステム」という〝バスや地下鉄などの公共交通機関の乗り継ぎ(割引)制度を核にした交通体系を確立させる〟施策を打ち出しました。これを行うことで「自動車(マイカー)を使わずとも公共交通機関を乗り継ぐことで快適に早く目的地に着ける」という利点がありました。また、乗り継ぎを円滑化させるために適当な箇所にバスターミナルを設置させる方針も固めたのです。

この頃の地下鉄は大阪万博への頑張りもあってか大阪市中心部は潤っている状態であり、バスとを乗り継がせるには充分でした。

f:id:Matsuda_KOTU:20210804222715j:image

バス事情では一部で最先端のゾーンバスを導入しているうえに最先端のバスターミナルを開設しているので、これらを全て絡めた大阪市内の公共交通機関の見直しが行われました。

f:id:Matsuda_KOTU:20210804150828j:image[1979年7月バス路線再編成実施の内容、影響としては中央線深江橋~阿波座と重複していた90号系統(高井田※1~森ノ宮駅前~川口1~野田阪神前)が廃止]

※1:高井田新深江駅より少し東にある現在86号系統のみが停車する停留所。(地下鉄の高井田とは関係ありません😅)

1979(S.54)年7月22日、この大規模なバス再編成とゾーンバスシステムの範囲を一気に広げたうえ、地下鉄・バス乗り継ぎ割引制度(地下鉄・バス乗り継ぎ指定停留所を設置)が実施された事で本格的に計画が施行されました。(ちなみにゾーンバスの範囲拡大は1978年頃から先行で行われていた)

f:id:Matsuda_KOTU:20210804171702j:image[あべの橋に設置された地下鉄・バス乗継指定停留所の看板。見えづらいが、「バス 地下鉄乗継停留所」と書いてある。ここでは地下鉄天王寺駅が最寄りの停留所として指定されているために乗継割引が適用されるが、北隣の天王寺西門前は適用されない。]

f:id:Matsuda_KOTU:20210804153754j:image[開設された歌島橋バスターミナル(現在は閉所)]

f:id:Matsuda_KOTU:20210804154016j:image[歌島橋バスターミナル開設当時の行先別 出発時刻表示盤]

乗り継ぎを効率良くするためのバスターミナルの設置も1981(S.56年)年3月3日に歌島橋バスターミナル同年12月5日に北巽バスターミナルと続々開設され、ライド・アンド・ライドシステムが完全に機能されたのです。

つまり、出戸バスターミナル乗り継ぎターミナル設置への試金石だったのですね。

そして、地下鉄・バス乗り継ぎやバスターミナルがあったのも、この〝ゾーンバスがあったから〟なのです。

f:id:Matsuda_KOTU:20210804155206j:image[接近表示機付きのあべの橋バス停]

余談になりますが、バス優先の専用レーンも範囲を広げ、バス優先信号の設置、バスロケーションシステム(接近表示付きのバス停)を設置したことで、多くの路線での定時性の確保やバス待ちでの問題解消にも携わりました。

 

複雑さが増したゾーンバスの実態

f:id:Matsuda_KOTU:20210804160235j:image[ゾーンバス制度とは無縁の一般系統の方向幕]

f:id:Matsuda_KOTU:20210804163756j:image[かなりややこしい特系統の方向幕]

 

1979年にゾーンバス実施エリアが拡大したのは良かったものの、逆に返って複雑になりました。それが、新たに区別された一般系統特系統というものです。

一般系統は幹線・支線という区別がそもそも無いので、たとえ乗り継ぎ指定停留所に降りて乗り継ぐことはできません。まぁ、これはまだ分かります。

問題は特系統なのです。

特系統というのは、幹線・支線区間をそのまま直通で運行する系統路線です。幹線から支線の乗り継ぎは降車しなければいけないので手間はかかりますが、これに乗るとそのまま乗り継ぐことが出来ます。しかし、これには罠がありました。

f:id:Matsuda_KOTU:20210804180038j:image[1985年当時の路線図]

例えば、特6号系統で美章園(左上)に乗車し、南下した先にある乗継指定停留所の湯里六丁目(右下)幹線4号系統に乗り継ぐ場合ですが、何故かこれはできません。

理由としては、特系統には幹線・支線境界停留所というものが設けられています。この路線図でいえば、美章園~中野中学校前は幹線区間なので実線(―)中野中学校前~湯里六丁目は支線区間なので破線(---)で表されています。

つまり、幹線と支線の境界は「中野中学校前」であるため、幹線区間美章園から乗車し、境界の中野中学校前を〝超えて〟支線区間の湯里六丁目に降車することは、〝自動的に幹線・支線に乗り継いで降車した〟と見なされるため、いくら乗り継ぎ指定停留所で降車したとはいえ乗り継ぐことはできません。

f:id:Matsuda_KOTU:20210804182234j:image[当時の路線図案内には、特系統の取り扱いは記載されていない]

結果的に特系統を利用する際には幹線あるいは支線区間のみの利用であれば、乗り継ぎは可能でしたが、このようなケースは利用される方にもなかなか認知がされていませんでした。

それに従来の乗継指定停留所の存在も相まったことで余計に自由が利かない使いにくさが問題視されました。結局、ゾーンバス制度が廃止になったのは2002(H.14)年5月20日コミュニティバス路線の見直しで赤バスが本格的に運行開始に合わせて行われました。

しかし、この時の変更内容は新たなバス乗り継ぎ割引制度の実施〝乗るバスにこだわらず、幹線・支線などという区別を無くす〟というもの。ただ、まだ乗り継ぎ指定停留所の制度はしばらく残っていました。しかしこれも2005(H.17)年の12月頃に地下鉄・バス乗り継ぎ割引の変更に合わせて廃止になりました。現在の〝一度目の降車から乗り継いで降車するまで90分以内〟であればバス乗り継ぎ割引が適用されるというスタイルになりました。

 

さらにはゾーンバス制度が廃止されたことでバス路線の幹線・支線・特などが廃止になったため、全て系統番号が数字のみになりました。

  • 幹線1号系統→1号系統
  • 1号系統→101号系統

特にこの1号系統となればゾーンバス制度中は幹線1号系統と1号系統の2つの系統があったので、誤解を招かないためにも敢えてできるだけ馴染みのある番号にしました。

 

総評

ゾーンバスとは、現在の交通機関の乗り継ぎ割引体系の確立と円滑な輸送を図るためのターミナル整備に係るに欠かせない存在だったのです。

ただ、やはりルールが複雑かつ厳格すぎたことからゾーンバス自体は無くなってしまいましたが、改善があって今のような自由の利く割引制度などが出来たのだと思います。ある意味、名残ですね笑

今では乗継券すら無くなり、回数カードかPiTaPaICOCAを初めとしたICカードでの割引制度と移り変わりましたが、今度はどのように派生していくのか気になるばかりです。

 

では👋

大阪市営バスのゾーンバス制度って結局何だったのか?【前編】

f:id:Matsuda_KOTU:20210731135631j:image

こんにちは😃

今から約20年ほど前に大阪市営バスが実施していた「ゾーンバス制度」ってご存知ですか?

私も名前は知っていたものの、そんなに利用した事が無かったので〝結局あれは何だったのか?〟をゾーンバス制度の基礎を踏まえて紹介していきたいと思います。

かなり内容が長いのでそこはご理解ください…

 

そもそも「ゾーンバス」って?

1974(S.49)年に実施されたシステムで、市内の根幹を走る路線から郊外部方面へ行く際に1度、根幹を走る路線(幹線)で乗り継ぎができる指定の停留所まで乗り、そこから郊外部付近を走る路線(支線)にそのまま乗り換える、といった「再度お金をかけずに」乗り換えをして色んな場所に行けるようなシステムをとりました。現在のバス→バス乗り継ぎ割引の元祖版のようなものです

(1974年11月当時の市内運賃は50円であるため、乗継してもそれ以上の運賃はかかりませんでした)

これをする事で「行き先を気にせず」にどのバスに乗ってもとりあえずは乗り継ぎができる停留所まで行けばいいので、待ち時間が大幅に短縮される利点がありました。

f:id:Matsuda_KOTU:20210731163150j:imagef:id:Matsuda_KOTU:20210731163554j:image[幹線あるいは支線路線の降車時に乗継券を発券して乗り換える]

 

シンボルは赤いリスマーク

f:id:Matsuda_KOTU:20210803111112j:image

ゾーンバスのシンボルはこの「赤いリス 」です。車両には幹線バスが緑色塗装、支線バスが赤色塗装(1979年以降は車体塗装変更のため区別無し)といった区別がされている上、前面左上部にこのリスのヘッドマークを掲出していました。

なぜ、リスを採用したのかというと「支線バスがリスのようにすばやく」という意で採用されたようです。あとは予測ですが、「支線を走る路線は主に中型車(幹線は大型車)が運用していた背景があり、隘路を走るような路線を小柄なバスが走り抜ける」というのも考えられますね。

1980年代半ばになると、若干デザインが変更されたのかリスの目が丸くなり、さらに1989年12月1日には、翌年に控える「国際花と緑の博覧会」があるためPRとして全車両のリスのヘッドマークから「花ずきんちゃん」に変更されました。(リスのデザインをそのまま上塗りしている)

f:id:Matsuda_KOTU:20210803143954j:image[花ずきんちゃんのヘッドマーク付き車両]

 

ゾーンバス制度導入の経緯

そもそも、ゾーンバス制度が何故導入されるようになったかを調べていきます。

f:id:Matsuda_KOTU:20210801090229j:image[ゾーンバス導入前の長吉長原地区(大阪のあし)]

当初にゾーンバスが導入されたのは大阪市営バスが運行する全ての系統路線ではなく、実は平野区(1974年9月に東住吉区から分区)と東住吉区のみでした。

これには理由があり、1955(昭.30)年の第3次市域拡張により、新たに大阪市編入されたことで公営住宅建設とインフラ整備が進められたことで急激に人口が増加しました。東住吉区東部には御堂筋線、北側にはJR線等が通じてはいますが、特に出戸や瓜破などといった地区はバスを唯一の輸送機関としていました。

例えば出戸から天王寺方面へバスに乗るにしても、特にラッシュ時では道路が混雑しているのでバスの定時性の確保が難しく、さらに系統路線がかなり複雑に絡んでいたためか、どうしてもダンゴ運転が生じてしまう背景がありました。

そこで、「出来るだけ早く目的地に着けるように」ゾーンバス制度を導入させたのです。

f:id:Matsuda_KOTU:20210801135038j:image[当時の大阪市だより]

f:id:Matsuda_KOTU:20210801135156j:image[ゾーンバス開通日の様子]

f:id:Matsuda_KOTU:20210801135231j:image[ゾーンバス運行開始記念乗車証]

 

1974(S.49)年11月28日、このような式典などを迎えながらゾーンバス制度が東住吉区平野区でスタートしました。さらに、バス優先のための交通規制を実施するにあたりバス専用道・専用レーンの設置を行いました。

f:id:Matsuda_KOTU:20210801140606j:image[ゾーンバス実施当時の系統図]

f:id:Matsuda_KOTU:20210801140532j:image[乗り継ぎ指定停留所一覧表(下部に特例が記載されている)]

 

出戸バスターミナルの開設

ゾーンバス実施直後は中々の好成績だった裏で最大の難点がありました。

それが「幹線から支線へ乗り継ぐ時の不便さ」でした。乗り継ぎをより便利するためにはターミナルの設置が必要になったため、一番路線が集中する出戸[現:地下鉄出戸]停留所付近にバスターミナルを設置、1976(S.51)年10月9日に出戸バスターミナルが開設しました。(既存の出戸操車場をバスターミナルに改装?)

f:id:Matsuda_KOTU:20210801151001j:image[開設当時の出戸バスターミナル]

f:id:Matsuda_KOTU:20210801150600j:image[出戸バスターミナル(2015年頃)]

バスではこのような動きがありましたが、この頃の地下鉄では谷町線(東梅田~都島、都島~守口)の開通があり、市内中心部には地下鉄路線が網状に整備されてきました。

このゾーンバス制度を地下鉄と連携させることになりますが、それについてはまた次回で紹介しようと思います。

 

では👋

大阪シティバス停留所の付随名称(副名称)を考察してみた。

こんにちは😃

大阪シティバスに乗っていると車内アナウンスで当たり前のように次の停留所名が読まれますよね?

「つぎは、地下鉄中津、地下鉄中津」や「つぎは、長柄国分寺長柄国分寺」などとこのように読まれるのですが、さらに停留所名の後に追って付近の名称やらを読み上げる事があります。

例えば…

例1「つぎは、南森町南森町大阪天満宮

例2「つぎは、大阪城大手前、大阪城大手前、府庁前」

このように続けざまに大阪天満宮、府庁前と読み上げられるのはその停留所に付随名称(副名称とも)が付いているからなのです。

大阪メトロでは大阪ビジネスパークを「大阪城ホール前」、淀屋橋を「市役所前」と呼称するような形でしょうか。

今回はそれらについて深く考察していきます。

 

Q.付随名称の見分け方は?

f:id:Matsuda_KOTU:20210626143209j:image[鴫野停留所]

見分け方は2種類あります。

1つ目は停留所の標柱に直接、括弧内に記されている場合です。特にこれらは車内アナウンスでも停留所名に続けて読まれる事が多いです。

しかし、病院や不動産などが付随名称になる場合は「~病院へは次でお降りください」や「内科、外科の~病院前です」と単純に最寄り停留所として案内されたりします。(ただし、大きな病院になると南森町のような続けざまに付随名称を呼称するだけになります。)

f:id:Matsuda_KOTU:20210626143823j:image[市営バス時代の南森町停留所、赤枠内が付随名称]

これらに該当する停留所(2021年6月現在)

など

 

しかし、付随名称があるにもかかわらず、中には停留所標柱に記載されていない場合があります。

そこで2つ目が先程述べた車内アナウンスで判別することができます。

これらに該当する停留所(2021年6月現在)

馬場町はなんと付随名称が3つもあります。ちなみに馬場町の一世代前の標柱では付随名称が記載されていました。

など

 

Q.方角は付随名称になるのか?

f:id:Matsuda_KOTU:20210626183351j:image[市営バス時代の地下鉄太子橋今市(北)停留所]

豊里大橋のたもとにある地下鉄太子橋今市の停留所には(北)と表記あります。これも一種の付随名称になると思われます。

これには経緯があり、2014年のダイヤ改正によってW停車(2回同じ名称のバス停に停車する)のある停留所を対象に方角を採り入れた付随名称を付けられました。もちろん、この停留所もこの改正によって付けられたのです。

おそらく周辺に点在するバス停を分かりやすくするために区別させたのでしょう。

ちなみに2014年以前でも方角を付随名称とした停留所はいくつか存在していました。

  • 此花区役所(東)
  • 大運橋通(東)
  • 杭全(東)(西)

など

 

Q.付随名称が削除されることはあるのか?

f:id:Matsuda_KOTU:20210626185539j:image[市営バス時代の大正区役所前停留所(現在、付随名称は削除されシールが剥がされている)]

f:id:Matsuda_KOTU:20210626221750j:image[済生会病院前(現在、付随名称は削除)]

あります。削除される理由は様々だと思いますが、推測しやすいケースを挙げるとすれば…

 

①付随名称に該当する建物が閉鎖・閉所した場合

②停留所の付随名称が、停留所名として改称された場合

③付随名称に該当する関連施設等が改称した場合

④停留所周辺の店・病院などとの広告媒体が終了した場合

の4点だと考えます。

 

①の場合で削除された停留所

→1990年に郵便貯金会館(現:メルパルク大阪)が淀川区宮原に移転したため削除(時期不明)、同付随名称の「天王寺区役所前」は残る

→1989年に電気科学館が閉館したため削除(時期不明)

  • 八幡筋(南区役所前)

→1989年2月に南区が消滅した(東区と統合し中央区となる)ため削除※八幡筋は現在廃止

  • 片町(駅前)

→1997年3月にJR片町駅が廃止になったため削除

  • 新喜多大橋(鯰江公設市場前)

→鯰江公設市場(ナマズエストア)が閉鎖したため(時期不明)

f:id:Matsuda_KOTU:20210626193701j:image[新喜多大橋停留所。付随名称が削除された跡が残っている]

 

②の場合で削除された停留所

  • 本庄中通(大淀区役所前)

→1977年に大淀区役所前に改称。※大淀区役所前は現在の本庄西二丁目

→1979年に鶴見区役所前に改称。

→1980年に上新庄駅北口に改称。

→2014年に曽根崎警察署前に改称。

など

 

③の場合で削除された停留所

大阪市営地下鉄四天王寺前が「四天王寺前夕陽ヶ丘」に改称したため、天王寺警察署前(地下鉄四天王寺前夕陽ヶ丘)に変更

  • 天神橋(近畿郵政局前)

→天神橋(日本郵政公社 近畿支社前)に変更※現在は削除

→2017年にフェスティバルシティの開業により、渡辺橋(フェスティバルシティ前)に変更

など

 

④の場合で削除された停留所(推定)

停留所標柱から削除を確認(車内アナウンスも呼称無し)

停留所標柱から削除を確認(車内アナウンスも呼称無し)

など

 

Q.近年、追加された場所はあるのか?

 

とこれぐらいでしょうか…(他に何か見つけた時はTwitterなどで教えてください笑)

これからもまだまだ何らかの形で新設されるのかもしれません。

 

~最後に~

かなりマイナーなネタで、実は出すのもちょっとためらいましたが「付随名称ってこんなにあるんだぞ!」っという気持ちを訴えたくて今回記事にさせていただきました。実際私が確認したところだと、削除された所も含めてこれまでに約200箇所ほどあります。

バスの路線図を作成する際に停留所名は書かなきゃ成立しませんが、付随名称は別に書かなくても良いような物で原則として省かれるため、〝それを探す〟となると…ある意味宝探しをしているかのような感覚になります。😅

上記で挙げた停留所の他にも付随名称の付いた停留所はまだ結構ありますので、「一日乗車券で大阪シティバスを乗りつぶそう!」という方にはオススメです笑

特に62号系統(大阪駅前~住吉車庫前)に乗りますと、途中で付随名称のオンパレードになりますので気になる方はぜひ〝大阪シティバスの変わった楽しみ方〟を見つけてみてはどうでしょう?

 

では👋

大阪シティバス昼間割引回数券を買ってきました。

こんにちは😃

つい最近なんですが、大阪シティバスの車内販売、バス営業所の乗車券販売窓口が廃止に…

さらには、紙券のバス回数券(大人・小人・昼間割引)が廃止となり今年に入ってから大きく変わってしまいました。

バス回数券(紙券)の発売終了について | 大阪シティバス株式会社

 

バス回数券だけは、、、と思いつつ価格を見ると全種買うとなれば総額8,400円(バラ売り無し)となるために諦めました。😢

f:id:Matsuda_KOTU:20210620172240j:image[購入したバス昼間割引回数券]

しかし、所用で出かけた道中に偶然にも金券ショップでバス昼間割引回数券などがバラ売りされていたためについ何枚か記念で購入しました。

今更ではありますが、今回はこの回数券を調べていきたいと思います。

 

  • バス昼間割引回数券とは?

大阪シティバスで利用できるバスの回数券で、バス営業所や地下鉄定期券発売所、駅長室、駅構内売店などで今年5月末まで発売されていました。値段は2,100円(12枚綴り)で特定の時間帯(10時~16時の間)のみに利用でき、1乗車あたり210円に対して175円と35円も安く乗ることができます。(バス回数券[大人]だと約19円安く乗れる)

ただし、2022年5月末までが有効期限となっているため、翌6月からは使えなくなってしまいます。

 

①これで阪急バスが乗れる?

→乗れちゃいます。

f:id:Matsuda_KOTU:20210620154231j:image[ご案内の最上部に記載がある。]

ただし昼間割引回数券ですから、10時~16時の時間帯の利用内であれば乗れるわけです。阪急バスの区間となると阪北線の十三や野中北一丁目などでは使えますね~😄(梅田~野中北一がシティバスと同じ210円※十三も同様)

阪急側の回数券ではこのような説明がされています。↓

f:id:Matsuda_KOTU:20210620174747j:image大阪市同調区間回数券|路線バス|阪急バスより

かつては大阪シティバス97号系統区間と併走していた加島駅方面にも使えました。(阪急バス加島線は2020年7月19日をもって廃止)

ちなみに残念ながらバス回数券(大人・小人)は利用出来ません。

 

  • 阪急バスも発売していた?

阪急バス側も大阪市内専用回数券として発売していたようですが、大阪シティバスの昼間割引回数券の廃止に合わせて既に発売を終了しています。ちなみに私は回数券自体、聞いたこともありませんでした😅

https://www.hankyubus.co.jp/news/images/20210426o.pdf

 

 

②昔の昼間割引回数券と比較してみる

f:id:Matsuda_KOTU:20210620161455j:image[昭和51年頃の昼間割引回数券]

折角なので、昔の回数券と比較してみました。バス昼間割引回数券は「石油危機等の大阪市の財政悪化の解消にやむを得ない必要最低限の料金引き上げによるサービス維持向上を図る1つの手」として1976年(S.51)4月1日に発売を開始し、当時は大人・小人の共通利用でした。降車の際に大人は1乗車が90円(当時)だったので2枚ちぎって運賃箱に投入、小人はその半額なので1枚ちぎって投入するという仕組みだったようです。2年後の1978年(S.53)11月では大人1,000円(110円券12枚綴り)、小人500円(60円券11枚綴り)と別々に発売されていましたが、後に共通利用のものに戻されています。

そして現在では210円券の物しか無く、大人運賃のみの割引回数券になっています。

 

  • 昼間利用の時間帯は?

また昼間利用の時間帯が11時~15時と現在の物よりも2時間も短いです。しかし、1982年にはもう現在の10時~16時になっていました。

ギャラリー

f:id:Matsuda_KOTU:20210620164904j:image[昼間割引回数券の案内:大阪のあし№99(1987年2月発行)]

f:id:Matsuda_KOTU:20210620170028j:image[昼間割引回数券の案内:大阪のあし№111(1991年3月発行)]

 

③最後に…

紙のバス回数券無き後も、現在では従来の地下鉄とバスが乗れる『回数カード』や今年3月に開始しているスマホを乗車券とした『モバイルチケット』などが代用になっています。昔ながらの紙券が無くなるのは悲しいですが、今やチケットレスという言葉が生まれている時代で今後はどのような乗車券になっていくのか気になるところです。

 

では👋🏼

大阪花博道路の遺構と旧心斎橋を訪問しました。

こんにちは😃

先日は鶴見緑地に行ってきました。

f:id:Matsuda_KOTU:20210507102629j:image

花博記念公園鶴見緑地は、もともと第二次世界大戦での空襲被害が起きた際の避難場所として1941年に防空緑地に指定されたもので当時は水田と蓮の栽培が頻りにあるだけだったようです。戦後になっては地下鉄建設で出た残土を泥地にうずたかく積まれて整備され、1972年4月より鶴見緑地として本格的に開園しました。大芝生が出来たのもこの年です。

十数年後には1990年4月~9月末まで開催された国際花と緑の博覧会(EXPO'90)」のメイン会場になりました。

 

花博の開催後には花博記念公園鶴見緑地として再整備され、もう31年経ちました。

そんな花博跡地を望むことができるのは守口市高瀬旧大枝咲くやこの花大阪市鶴見区緑地公園のいのちの塔などありますが、あまり知られてない花博アクセス道路の遺構が今も存在します。

f:id:Matsuda_KOTU:20210507102519j:image

地図の赤枠で示された部分がまさに遺構の地点、この付近には花博会場西ゲートがありました。

f:id:Matsuda_KOTU:20210507110356j:image

緑地西橋南側に来ました。ランニングにはうってつけの平坦な道ですね。

f:id:Matsuda_KOTU:20210507110445j:image

左側には道路があります。

しかし、私が立っている道もかつては車が通るような立派な道路だったのです。左の植え込みも中央分離帯として役立っていましたが、緑地とあって上手いこと隠せていますね笑

 

この先の緑地西橋も中々の見もの。

f:id:Matsuda_KOTU:20210507112721j:image

f:id:Matsuda_KOTU:20210507125905j:image

緑地西橋自体は鶴見緑地改装(西ゲートアクセス道路)として1989年に作られたのですが、トラス型の鉄橋(橋梁の外側)の部分はもともと1873年の心斎橋に架けられたもので、日本では現存最古の鉄橋とされています。

明治時代に架けられた心斎橋はその後も境川橋、新千船橋、鈴懸橋(鶴見緑地公園内)として転々としましたが、現在はこの地で道路橋として役割を果たしています。

f:id:Matsuda_KOTU:20210507114427j:image[緑地西橋東詰には鉄橋の由緒が記された碑文がある]

f:id:Matsuda_KOTU:20210507115548j:image[親柱には橋の名称と花博のシンボルマークが刻まれている]

 

f:id:Matsuda_KOTU:20210507120304j:image[奥にある中央第一駐車場]

他の遺構では、鶴見緑地中央第一駐車場が花博シャトルバスのターミナル跡だったりしますが、名残が全く無く確認できるのは航空写真で見た区画ぐらい。他にもあるには有るのですが、当時の面影が十分にある遺構というのは緑地西橋付近を縦貫する道路くらいなのでしょうね…🙄

 

では👋🏻