マツダ交通の見たまま

主に大阪シティバスの小ネタや歴史をディープに掘り下げる考察系ブログです。

市バスカラーの緑はどれだけ長く親しまれたのか?

こんにちは😃

昨秋に大阪シティバスの新塗装発表があり、12月頃には酉島・鶴町営業所には緑・白・青を基調にあしらった車両が導入されました。

路線バスのデザインを41年ぶりに刷新します(2020年8月28日発表) | 大阪シティバス株式会社

 

f:id:Matsuda_KOTU:20210407103949p:image[大正橋にて]

おフランスを想起するトリコロールの新デザインは斬新なデザインで、見るからにこれまでの市バスとは違うような大きく衣替えしたような姿となっています。ちなみに新デザインにはこのような意味があります。

Osaka Metro Group全体のデザインを統括する奥山CDO(チーフ・デザイン・オフィサー)の監修によりデザインした新しい車両は、「大阪のシンボルとしての路線バス」としてこれまで長年親しまれてきた車体カラーのグリーンを踏襲し、「市民生活に根ざした路線バス」として、信頼、安心を象徴したホワイト、また「未来の大阪へ走る路線バス」として、港町・大阪の海、大阪シティバスOsaka Metroを象徴するブルー、これらをこれまでの40年からこれからの未来へ、時代の扉を開いて前進する様子を斬新な縦グラデーションで表現し、皆様に愛されるバスを目指してデザインしました。

[路線バスのデザインを41年ぶりに刷新します(2020年8月28日発表)より]

 

今回の新デザインでは現行塗装のグリーンを〝「大阪のシンボルとしての路線バス」としてこれまで長年親しまれてきた〟を理由に踏襲したとありますが、実際にどれくらい長く親しまれてきたのかをこれまでの大阪市営バスが採用してきた塗装を踏まえて紹介していきます!

 

1.草創期は緑ではなかった。

え、最初から緑色じゃなかったの?とズッコケる方もいらっしゃるでしょうが、緑じゃないんです。

f:id:Matsuda_KOTU:20210405112459j:image[石川島造船所(→いすゞ)製のウズレー]

1927年2月26日に開業した阿部野橋~平野間を走った大阪市営バス(現:大阪シティバス)はウズレーを筆頭にインターナショナルやダットなどの車が導入されたのですが、ボディカラーは緑色でなく藍色でした。

後に市営バスと対抗することになる、一足先に開業した大阪乗合自動車の塗装は青塗りだったことで青バスと呼ばれていました。

 

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さらに1929年9月、堺筋四つ橋筋(当時は南北線)の乗り入れに合わせて、青バスと対抗するように銀色にまとった新造車が走ったことで、市民から「銀バス」の愛称を受けました。当時の局長が乗り入れによる本市の思いと喜びを詩に託し『銀バス行進曲』(譜は道頓堀行進曲)なるものが制作されました。

 

銀バス行進曲

1. 永い月日の思いがとどき   晴れて通ふや銀のバス

(テナモンジャナイカイカ  白銀バスよ)

2. 粋な姿の銀バス通ふ   街もひとしほ[一入]堺筋

(くりかえし)

3. 秋のおとずれ南北線に   通いそめたる銀のバス

(くりかえし)

4. 乙女おもわすあの銀バスに   心ひかるる市の人

(くりかえし)

5. 色もさやかな白銀バスの   窓にゆかしき乗馬服

(くりかえし)

 

1940年には青バスとの統合により窓上を銀色、下部は緑色の二色としましたが、配色が悪かっため翌年には窓上はクリーム色になり、ゼブラバスの登場までは大体はこれが基調になっていました。塗装に緑を使用したのはこの頃からなのですね~😆

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2.ゼブラバスの登場と現行塗装まで―

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戦後しばらくは戦前の塗色でGMCトラックを改造して走らせたりトレーラーバスを走らせたりしていました。画期的に変わったのは1959年の箱型ワンマンカー(上の写真)を製作する際に先に1954年にデザイン統一を図った大阪市営観光バスの群青色or赤色の生地に8本の縞模様を入れたデザインを採用したことが好評であったために、路線バスでは濃緑色にして6本の縞模様にしました。また、屋根部が白なのは車内温度を下げるためだそうです。(これは後の新塗装車にも引き継がれます)

窓下の帯の色が赤なのはワンマンカーである証であり、他にはツーマンカー、ワンツーマンカーの例もあります。日本初のワンマンバス運行!大阪市営バス! - マツダ交通の見たまま

この縞模様のデザインは「ゼブラバス」として1970年代頃まで使われてきましたが、バスのデザインの流行も過ぎてバス塗装の変更を望む声があがりました。実際には縞模様の塗装工程で手間がかかることや塗色が暗いためにスモッグの中で影が薄れてわかりづらいという事もあったため、1972年に登場して好評だった電気バスのあおぞら号の明るい緑とクリーム色の単純な配色、そして当時の大阪市営観光バスが採用していたスピード感を与えるために後部を斜め上にカットした斬新なデザインを採用した路線車専用の新デザインを1972年11月から約4年かけて塗装変更されました。ワンマンカーを赤だと帯で区別するためにしていたゼブラバスの塗装を廃すのも、1971年頃には全車ワンマンカーになったために区別する必要が無くなったというのもこの塗装変更の理由でもありました。

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1974年には平野エリアを中心にゾーンバス制度が実施され、一般路線用の車両とは別にゾーンバスエリアの支線系統での専用車両も配備しボディカラーを緑でなく赤色に変えて区別化していました。

f:id:Matsuda_KOTU:20210405132624j:image[支線系統専用車]

しかし、この塗装車は10年も経つことなく現行のデザインに切り替わります。

 

1979年に「市内に緑を」の合言葉をもとにクリーム地に緑色の太い帯と細い帯を1本づつ配色した塗装になりました。今ではどこでも見られるデザインの車ですね!

f:id:Matsuda_KOTU:20210405142657j:image[1986年式 日野P-RJ系]

f:id:Matsuda_KOTU:20210405151837j:image[2009年式 いすゞエルガ]

また当時の大阪市営バスは極度に悪化したバス事業財政の再建を図るために行った1979年7月の大規模なバス路線系統再編成で再スタートを切る節目の年にこのような塗装の変更があったため、かつての市バスを刷新させるという意図があったようにも思えます。

また、1990年代に入っては環境にやさしいバスの導入を積極的に行い、低公害車天然ガスノンステ車などが導入された際には他の車両と区別させるために「澄み切った空」をイメージとした「青色」が採用されました。

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余談ですが、2000年~2013年まで存在した赤バス遠くから見てもすぐに判別しやすいようボディ全体を明るく暖かみのある赤色にしていたようです。

 

そして、2018年に民営化されたことで新たなスタートを切りこのような新しい変化があったわけです。

―――――――――――――――――――――

 

つまり、〝「大阪のシンボルとしての路線バス」としてこれまで長年親しまれてきた車体のグリーン〟というのはゼブラバスからではなく1940年の青バス統合時からだったということが分かります!ただ本格的に親しまれたというのなら、「ゼブラバス」と愛称のついた1959年からになるのでしょうね。

それでも60年以上の歴史があるんですから半世紀を超えるほど長いものだと思います。😌

 

最後に……

今回の新塗装車の登場は1979年の更新から41年ぶりで、新デザイン車の登場以降は車両更新に合わせて置き換えられ、全車が新しいデザインになってしまいます。40年ほども現行塗装で走ったのですから、いざ無くなるとなると「悲しい」と声が上がるのはどうしようも無い話ですがいつかは慣れるものです。オレンジカラーの東武バスやグリーンカラーの都営バス(2世代前)だって大昔はどちらも青色だったのですから、いつの間にか慣れているものなんでしょう。

服のファッションと同じようなもので、バスにもトップモードがあるわけですから時代にあったような塗装が今後もあちこちで一新されていくのかもしれませんね。

ですが、現行塗装が消滅して新デザインが見慣れる頃になってからは「昔はあんなカラーだったなぁ…」と懐古したいものです笑

 

では👋🏻

大阪メトロの路線図を分析してみた!

こんにちは😃

今回は珍しく鉄道の小ネタ。とはいっても電車や列車が出てくるわけじゃないんですけど。

つい最近にOsaka Metro・シティバスのご案内にある地下鉄路線図を見ていると何だか色々な発見があり面白かったので、以前の市営交通ご案内で使われていた頃の路線図と比較して記事にしてみました。中には推測も兼ねていることも多々ありますので、そこはご了承いただけますと幸いです笑😅

 

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[大阪メトロの路線図(←粗くてすいません💧)]

路線図|Osaka Metro

↑リンク先と同様のものです。

 

過去とはどう違う?

f:id:Matsuda_KOTU:20210314222040j:image[2014年10月当時の旧版路線図(市営交通ご案内)]

たとえば、上記の旧版の路線図と比較してみますと…

大きな違いと言えば路線図の背景としてに大阪の地形が合わさったことで場所が分かりやすくなったこと。

大阪湾や淀川、咲洲夢洲などがあることで極論を言えば「地下鉄に乗って海が見たいけどどこに行けば見れるかな?」となれば、中央線やニュートラムに乗れば行けることが分かります。それに、大阪の大幹線である大阪環状線も他社線よりも太線で強調されたことによって分かりやすくなった気がしますね。😆

他にあげるとすれば…

  • 駅名に英語表記が追加された
  • 相互直通区間という凡例を無くした
  • 駅ナンバリングのデザインをフォントのみの着色から枠内全体での着色に変更にして見やすくした。※1

などが発見出来ました!

 

※1

f:id:Matsuda_KOTU:20210316130015j:image[過去の駅ナンバリングデザイン]

f:id:Matsuda_KOTU:20210316130009j:image[文字をかたどるかのように枠内自体にラインカラーを塗り、枠内の色の濃淡によってフォントの色も白か黒で配色されている事で見やすい]

 

実は駅ナンバリング関連での変更はもう一点あるのですが、

「そもそも駅ナンバリングって何だ?」

「これは一体どういう意味があるのか?」

とあまりしっくり来ないと思います。

そこで次からは特徴などを紹介しつつ、もう少し掘り下げてみてみましょう。

 

駅ナンバリングについての謎

駅ナンバリングとは、インバウンド(海外からの観光客)などの現地の言葉に疎い人たちに対して世界的に普及しているアラビア数字やラテン文字などを活用して駅を識別しやすくさせるために用いる駅の番号のことです。

梅田だとM16天下茶屋だとK20と電車に乗っていれば英語での車内放送で必ず聞いているはずです。笑

大阪メトロでは大阪市交通局時代の2004年7月1日に採用されました。

 

しかし、ここの駅ナンバリング(以降、駅番号として説明)はけっこう独特なのです。

まずは……

f:id:Matsuda_KOTU:20210314224547j:image[大日の駅番号はT11]

f:id:Matsuda_KOTU:20210315111913j:image[名古屋市営地下鉄桜通線名古屋駅の駅番号はS02、終点の中村区役所はS01]

 

名古屋や仙台、京都などの地下鉄では起点駅の駅番号が「01」から始まるのに対し、なぜか大阪メトロだけは、ほとんどの路線が「11」から始まるのです。

 

これは、将来地下鉄が延伸することになった場合で大規模な番号変更を伴う事のないように対応できるようにしたこと。まぁ、10駅なんてさすがに作らんだろうし余裕もって11スタートで!っていう形ですね。

ちなみに千里中央M08であるのは北急の路線であるため、実質的な御堂筋線としては江坂のM11が基準になっていますし、かつてOTSテクノポート線などであったコスモスクエアやトレードセンター前に至ってもニュートラム側は中ふ頭(P11)が、中央線は大阪港(C11)が基準になっています。

路線図や各駅ホームの駅名表示などに記されている記号・番号は何ですか?|よくあるご質問|Osaka Metro

ちなみに御堂筋線がM、谷町線がTになるのは「み→Mi→M」「た→Ta→T」とイニシャルから取っています。また堺筋線がK、ニュートラムもとい南港ポートタウン線がPであるのは先行の千日前線(S)や長堀鶴見緑地線(N)があるために避けていたようです。

 

~余談~

いまのような路線図になるためにこれまで地下鉄はどのような路線図を作ってきたのかを紹介していきます。

―――1969年頃は?

f:id:Matsuda_KOTU:20210316120803j:image[1969年9月当時の路線図]

ラインカラーを交えたカラフルな路線図、もうあったのですね!

この頃は万博開催を控えており、複数の路線区間が建設工事中だったために細線が結構見受けられます。まだ御堂筋線谷町線など路線に愛称が付く前であったために1号線の①や2号線の②と番号のみで振り分けられています。

駅もまだ少ないので見やすいです。😃

 

―――1983年頃は?

f:id:Matsuda_KOTU:20210316120723j:image[1983年当時の地下鉄路線図(市営交通ご案内にて)]

駅もずいぶんと多くなったためにより複雑になっていることが確認できます。これでは観光客やインバウンドなどには読み取るのも厳しいような気もします。

当時はインバウンド向けにも分かりやすいように英語で記された普通券料金表が設置されており、駅名が書かれた上にローマ字で表していました。

うーん。見慣れているのか、やはり現在のような路線図が私にとっては好みになりますね。

 

閑話休題。。。

 

さて、先程の駅ナンバリングの謎についての続きですがもうひとつ発見がありました!

2つの線の通る交差駅(大国町を除く)での駅番号の付き方が新旧では変更があるんですよ。と言いますと

f:id:Matsuda_KOTU:20210315003910j:image[旧]
f:id:Matsuda_KOTU:20210315141936j:image[新]

中央線をピックアップして見ていただきたいのですが、新ver.では堺筋本町谷町四丁目などの中央線の駅番号が全て上、堺筋線谷町線の駅番号は下にきています。総括してみると…

東西に結ぶ路線→交差駅では優先的に駅番号がにくる

南北に結ぶ路線→交差駅では優先的に駅番号がに来る

 

ことがわかります。

しかし、新旧と比較してみると谷町九丁目の方の駅番号の位置ですが、上下が逆転していることが確認できませんか…?🙄

これはおそらく新ver.とは違った基準が設けられていたと思われます。

 

では、旧ver.は何を基準にしていたのというと、私の推測ですが、駅が新設された時に通っていた号線の色を優先的に上にしていると思われます。

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例えば、天王寺駅谷町線よりも御堂筋線が先に開通したため、駅番号は御堂筋線(M)が上に来ます。長堀橋駅も同様に長堀鶴見緑地線よりも堺筋線が先に開通していたために堺筋線(K)が上に来ます。

このように原則としては駅で一番最初開通した路線の駅番号が優先的に上になっているのです。

ただ、例外があるんです。

それが堺筋本町天神橋筋六丁目、そしてコスモスクエアこれは何ともややこしいのです。

堺筋本町は、堺筋線と中央線が同時開業しているため先に通っていた号線で付帯するのは難しい話です。そこで計画路線という話でいけば、中央線(第4号線)が堺筋線(第6号線)よりも先に計画されていたので、中央線が上に来ます。

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天神橋筋六丁目谷町線よりも堺筋線が先に開業しているのにも関わらず、なぜか谷町線の駅番号が上に来ています。

これもまた、計画路線を加味した上では谷町線が先に計画されていた区間であるために優先的に上になったのかと思われます。

 

コスモスクエアはもともとOTS線の駅でありましたが、2005年に交通局に移管されたことで中央線・南港ポートタウン線になりました。この時すでに駅ナンバリング化を実施していました。しかし、これといって納得のいくようなことが思いつきませんでしたが、恐らく高速鉄道(中央線)の駅番号が中量軌道(ニュートラム)よりも優先的に上に置いたのだと思われます。

 

これらのように新ver.では、駅番号の位置やデザインをより単純化させたことで見やすくなったような気がしますね。☺️

―――――――――――――――――――――

 

いかがでしたか。私が発見できたのは上で述べた通りですが、もしかすればまだまだ知らないことがあるのかもしれません笑

やはり歩きなれないような街を観光するには路線図というのは欠かせませんよね。今の路線図はインバウンドを含めたツーリスト向けにとっても優しくなった気がします。

旧ver.の路線図は完全に消滅したわけではないですが、いずれは現在の路線図に統一されるはずです。

とはまぁ、新旧で見比べてみるとこんなに変化があったとは驚きなものです。語彙力のない感想になりますが、いやー路線図ってすごいですね~!😊

 

では👋🏼

日本初のワンマンバス運行!大阪市営バス!

こんにちは😃

ところで、大阪市交通局が行ってきた日本初といえばなんでしょう?

今は亡き路面電車事業だと日本初の路面電車(大阪市電)の運行や地下鉄だと日本初の公営地下鉄(大阪市営地下鉄)の運行、喜連瓜破駅で日本初の地下鉄エレベーター設置などありますが…

大阪市営バスに関しては日本初のワンマンバスの運行があります!

今回は大阪市営バスワンマンバスについて話していきたいと思います。

f:id:Matsuda_KOTU:20210129221830j:image[緑木検車場にて、箱型のワンマンバス]

そもそもどこで走ったのか?

日本初のワンマンバスの運行は1951年6月1日に12号系統(今里~勝山通経由あべの橋)にて実施されたのが最初です。

時代の背景としては戦後になり、鉄道すら通らない、バスだけに頼る市周辺部の住民から市営バスの終発時刻延長の強い要望がありましたが、当時の大阪市営バスの車両というのは運転手と女性車掌が乗るツーマンスタイルとなっており、車掌は整理票の発行(←後述)や乗車券の手売り販売、車内アナウンス(テープレコーダーやマイクの設備は無し)などの業務では欠かせない存在でありました。ただ、終発時刻延長というのは当時の労働基準法では女子の深夜業の禁止(第64条の3)がされていたために、女性車掌は終発時刻(22時以降の運行)ができなかったので厳しい話でもあったのです。

しかし、アメリカではワンマン運行が先例としてあったのでそれを参考にし、ついに1951年6月1日に12号系統(今里~勝山通経由・あべの橋)にて車掌を無くしたワンマンバスを6両で運行したのです。この12号系統は現在のあべの橋~大池橋経由・布施駅前の大昔の形となっています。

また、続けて1952年2月20日には30号系統(今里~蒲生町四丁目経由・守口車庫前)で運行されました。

当時のワンマンバスには前面の行先方向幕の上部にも幕が設置され『ワンマンカー』の文字が書いており、料金箱、釣り銭機、降車用のベルボタンが設置。さらには出入口扉も1つから2つに増やされました。ただこの時には『前乗り、後降り』そして、料金先払いという方式で行われました。導入時には乗客もどちらから乗ればいいのか分からずに困惑する方もいたそうですが、ワンマンバスという存在が珍しく大変人気を博したそうです。

 

話はそれますが、厳密に言えば大阪市営バスでの呼称だと『ワンマンカー』になるのですが、由来は運転手と車掌の2人業務をOne Man(ワンマン)で行うこと当時の内閣総理大臣である吉田茂のニックネーム、ワンマン宰相の『ワンマン』がユーモアな感じを与えていたことからそう名付けられたようです。

つまりはコンダクターレスの運転手は2人力といったところでしょうか、どちらにしろ負担は大きいでしょうね~

閑話休題

かといって、1951年以降にワンマンバスのみが導入されたわけではなく、ツーマン仕様のバスの導入もされていたのです。また、ワンマンバスの導入とはいえども当時はボンネット型の車両であり、箱型の導入はもう少し先の1959年になってからで方向幕上部にあったワンマンカー幕の文字も下図のように系統番号横に収まるようになりました。

f:id:Matsuda_KOTU:20210129225458j:image[ワンマンカーからワンマンと表記]

さらなる問題に…

大阪市営バスワンマンバスの運行は京都などの他都市に影響を受けるほどではありましたが、実質上では乗客密度が低いこと、1区間の路線(まだ当時は区間制)、交通混雑の少ない路線とで限定されていたために市内での普遍的な浸透というのはまだまだといったところでした。

そこで「昼はツーマン、夜はワンマン」という運行するというワンツーマンバス(こちらは前・中引扉)を2両試作し1961年に運行を開始しました。またこの頃には既にあのゼブラバスが走っていたのでツーマン、ワンツーマン、ワンマンと区別をさせるために車両に帯を塗り込んで色分けしていました。

  • ツーマン→クリーム帯
  • ワンツーマン青帯
  • ワンマン→赤色

f:id:Matsuda_KOTU:20210129230956j:image[大阪のあし№24より、クリーム帯・青帯・赤帯の車両が集結※古市営業所にて]

このワンツーマンバスの成功によって翌年には増車をし、終発時刻を1時間(23時台)も延長することに成功したのです。もちろん経費節減という利点もこのバスの登場でさらに大きくなりました。

 

オールワンマンカーの加速

ワンツーマンカーの登場の頃には既に高度経済成長真っ只中(岩戸景気やらオリンピック景気やら…)であり、デパートなどの第三次産業の発展が顕著になったことで労働環境が厳しい女性車掌の新規確保が難しくなったために車掌を廃して全車ワンマンカー化を進める方向になり、自動的に釣り銭の出る料金箱の改装(1966年5月から、同年12月にはツーマン車両にも導入)や回数券の自動発売機の設置(1966年5月7日導入)という機械化が順々と行われました。

特に画期的であったのは、他区間系統路線(→特に1区、2区と料金の異なる路線)では車掌が整理票(→整理券)を乗客に手渡ししていたのを整理票自動発行機という機械で行いました。1964年12月27日に特36号系統(大阪駅前~安田経由・茨田大宮町)で運行され、同時に『後乗り・前降り』そして料金後払いというスタイルをこの路線で実施したのです。これは乗降の円滑化を図るためでもありました。

続けて、36号系統(大阪駅前~鶴見町[ワンマンカー運行時期不明])や27号系統を初めとする4系統[下図]で『後乗り・前降り』を実施することになり、好評であったので1967年9月にはワンマンバス全車両で実施されました。その時には既に停留所呼称などを行う自動ストップテーププレーヤーインターホンも設置されており、行き先等の問合せも運転手が対応することになりました。f:id:Matsuda_KOTU:20210130000528j:image[後乗り・前降り系統増設のお知らせ]

1960年代後半にかけて普通券・回数券の手売り廃止など車掌の業務も徐々に縮小されていき、1971年には念願の全車ワンマンカー化が達成されました。もはや全車ワンマンカーなので赤帯の意味も成さなくなり、それが直接的な理由なのかは不明ですが1972年からはゼブラバスの塗装も変更(晩年の大阪市営バス時代の旧塗装)となり、一気にツーマンという時代が遠のきました。

 

まとめ

f:id:Matsuda_KOTU:20210130011940j:image[ゼブラバス復刻塗装車両(公営時代)]

日本初のワンマンバスの導入というのは、正直に言えば聞いてもそんなにパッとしない感じがするもののこのワンマンカーがあったからこそ、『後乗り・前降り・後払い』になった。終発時刻を遅くすることができた。業務の機械化での人件費削減に繋がった。といった成果があったのでけっこう革新的で画期的な存在だったんだなと私はそう感じております。😅

現在の大阪市営バスもとい大阪シティバスでは、ワンマン化どころか全車ノンステ化も達成していますが、少し時代を逆行してゼブラ塗装を復刻した車両が走っております。この復刻塗装にも引き継がれている赤帯もこの記事を閲覧されてはもうお分かりのはずでしょう。笑

外装のみならず内装も凝ってて面白いので見つけたら乗ってみてください…

 

では👋

昔の近鉄バス、大阪~近鉄奈良駅あれこれ

こんにちは😃

今回は近鉄バスの話。

大阪から奈良までを結ぶ路線のあれこれを取上げます。

f:id:Matsuda_KOTU:20210110002019j:image

近鉄バスが大阪~近鉄奈良駅方面に向かう路線ではどんなものがあったといえば、梅田から阪奈生駒線を経由して近鉄奈良に向かっていたというのが有名な話ですが、実は他にも何種かありました。

今回はそちらを紹介していきます。

f:id:Matsuda_KOTU:20210110002141p:image«1950年頃の路線図(独自調べ)»

 

当初は阿部野橋から河内国分、王寺を経て近鉄奈良までに至るルートです。これは近鉄バスが奈良までを結ぶ草分けとなりました。

まず、阿部野橋~平野元町6丁目間は大阪市との運輸協定区間(1948年4月1日運行開始)であり、阿部野橋に乗り入れたのはちょうどこの頃。それまでの平野元町6からは柏原大和橋などの運行をしていました。

また国分駅前~光洋精工前は1945年時点では独立して運行していました。(後に柏原大和橋まで延長するも休止)

1949年4月に王寺駅前~近鉄奈良間を奈良交通との乗り入れ協定の際には柏原大和橋~光洋精工前の復活、光洋精工前~王寺駅前の延長を果たして近鉄バスとして初めて大阪~奈良間を結ぶ路線が誕生しました。

その後、内本町バスセンター及び折り返しとしての本町バスセンターが1953年に設置されると、本町四丁目~阿部野橋に延長されました。f:id:Matsuda_KOTU:20210110005758j:image«本町バスセンター(奥の路線図下部には近鉄バス国分ルートの奈良線が掲載)»

f:id:Matsuda_KOTU:20210110004254p:image«1960年頃の路線図(停留所は概略)»

そしてようやく阪奈生駒ルートの奈良方面行きの便の話になりますが、誕生したのは1959年6月10日に本町四丁目~阪奈道路経由、奈良公園間(直通急行バス)が新設。近鉄バスに詳しい方ならばお気づきですが、日本初の二階建てバスであった日野+近畿車輛のビスタコーチが走っていた路線でもありますね。

1961年には梅田にも乗り入れしたために本町四丁目のみならず梅田からも便が出ており、さらに奈良ドリームランドが開業してからは奈良公園奈良ドリームランド間に延長して運行していたそうです。(開設・廃止時期不明)

ちなみに生駒登山口~生駒山上間は1958年8月の開設で阪奈道路が開通する少し前でありました。

開設当時の阪奈道路は有料道路であり、当初の運行区間も若干違って奈良ゴルフ場からは国道308号線を通り尼ヶ辻、国鉄奈良・油坂(駅)を通って近鉄奈良に向かうというもので、後に新大宮駅経由に変更されています。(変更時期不明)f:id:Matsuda_KOTU:20210110012355p:image«停留所は概略»

 

しかし60年代後半は次第に衰退が見えるようになり、1970年1月には内本町バスセンターが閉鎖されたことで近鉄バスは本町4丁目に乗り入れることが無くなりました。王寺~奈良乗り入れもこの頃に無くなっています。(1969年8月23日に奈良交通王寺営業所が廃止)

また、奈良公園行きも1980年までには廃止になっています。

1980年からは後者の阪奈道路経由の近鉄奈良行きのみが大阪~奈良駅を結ぶ唯一の路線として存在したのです。

 

では👋🏻

大阪シティバスの系統番号のナゾ。

こんにちは😃

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大阪シティバスの1号系統といえば、あべの橋出戸バスターミナル間を運行する路線。まぁ、少し前なら地下鉄動物園前~出戸バスターミナル間を運行する路線ですね。

でも、何故この路線が1号系統なのかと思いませんか…?(私は思いました。🙄)

なので、過去の1号系統をざっくりと遡りつつ系統設定の構造を探っていきます。

 

▷▶︎1936年▷▶︎

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まずは昭和初期の1936年に遡ってみます。見えづらいですが、当時の1号系統は桜橋~上六~あべの橋間を運行する路線と見て取れます。

当初は桜橋~上本町六丁目間(1927年5月新設)でありました。

ちなみに市バスが初めて運行したあべの橋~平野間(1927年2月新設)はこの4号系統にあたります。

この系統付番の設定は基本として路線が開設された順番になっています。ただ、4号系統の路線がなぜ1号系統と称さなかったのかは不明ですが、その当時は付番そのものが無かったのかもしれません。

 

▷▶︎1943年▷▶︎

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太平洋戦争真っ只中の1943年はこれでもかなり路線が休止になっていますが、系統は欠番がありながらも54号系統まであります。

当時の1号系統は阿部野橋堺東駅前ですね😁

実は1936年から1940年の間には2度にわたって系統編成があり大幅に系統番号が変わりました。特にこの1940年に至っては青バス(大阪乗合自動車)路線の継承があったため1940年には51号系統(玉川町4~桜島)までありました。この系統付番の特徴は、あべの橋発着路線を軸にして反時計回りに系統が付番されているのです。

※ちなみに1945年の終戦時には8系統に減らされています。

 

  • この基準で設定された系統路線(2020年現在)

9号系統(平野区役所前~出戸バスターミナル)

12号系統(布施駅前~あべの橋)

13号系統(北巽バスターミナルあべの橋)

36号系統(大阪駅前~地下鉄門真南)

37号系統(大阪駅前~井高野車庫前)など

(過去の多少の起終点変更・区間変更を含める)

 

▷▶︎1953年▷▶︎

f:id:Matsuda_KOTU:20201203233602j:image

トロリーバス1号線設置直前の路線図です。まだ41号系統が残っているんですね~(詳しくは下のリンクにてお願いします。)

大阪市バスに存在した神崎橋行きを語る - マツダ交通の見たまま

系統付番の設定は変わらず反時計回りの方式を取っていますね。また、1号系統は大阪駅前~我孫子道となっています。50番以降は1936年当時のような新設した順番で付番されています。また、同じエリアで同時期に複数の路線が新設した場合は連続して系統が付番されます。

例↓

56号系統(天六~酉島町) 54年12月新設

57号系統(天六~佃町6) 54年12月新設

この路線図には49号系統までありますが、かなり番号がとんで101号系統(大阪駅北口~駒川町6)と102号系統(大阪駅北口~平野京町1)があります。これはトレーラーバスが運行する路線であるため区別したものだと思われます。

▶︎余談ですが、木津営業所はトレーラーバス車庫を設けるために開設したのですよ~🙄

 

追記

その後も系統番号は出来るものの番号が若干とびながらも付番され、とばされた番号は後に新路線開業時に埋められつつ、多くの路線が誕生しました。系統番号は徐々に膨らみ、100番台になる頃には先に100号系統をとばし、既存の101、102を飛ばして103号系統が作られました。103号系統開業時(1964年)には101、102はトレーラーバスの運行はしておらず、他の一般路線と同じ普通のバス車両が運行していました。(←ちなみに100号系統は1970年に開業)

それ以降では、110号系統(1968年12月?開業)までが開業しています。

 

110号系統以降の番号ですが、111号系統(あべの橋豊中)や112号系統(野田阪神前~豊中インターチェンジ)などは郊外線として付番される形となり、111号系統開業の1960年4月にはまだ77号系統しかありませんでしたので、その頃から郊外線では無い一般路線の系統番号の付番は110番までと決められていたと思われます。

 

郊外線で111や112の他には、

121号系統(あべの橋~南衣摺経由 八尾市役所前)

122号系統(あべの橋太子堂)

130号系統(大阪駅前~八番)

136号系統(大阪駅前~諸福経由 住道駅前)

 

がありました。

150号系統(なんば~安田)というのもあったのですが、どういう理由でこの系統番号が付番されたのかは不明です。。(現在も調査中)

《追記終わり》

f:id:Matsuda_KOTU:20201206154456j:image

[郊外線の豊中線(111号系統)や110号系統が記載(1969年頃の路線図)]

 

  • この基準で設定された系統路線(2020年現在)

79号系統(桜島駅前~西九条)

86号系統(布施駅前~上新庄駅前)

88号系統(大阪駅前~天保山)

91号系統(ドーム前千代崎~鶴町4)など

(過去の多少の起終点変更・区間変更を含める)

 

▷▶︎1980年▷▶︎

f:id:Matsuda_KOTU:20201205223734j:image[幹線1号系統 出戸バスターミナル~地下鉄動物園前(深緑色)]

1974年に平野区でゾーンバス制度が始まり、系統路線もかなりややこしくなりました。1979年には殆どの地区でゾーンバス制度が導入されました。実はこの制度が始まった際に現在の1号系統(出戸バスターミナルあべの橋)が誕生し、幹線1号系統として運行していました。

  • ゾーンバス制度を基準に設定された系統路線(2020年現在)

2号系統(長吉長原東3~出戸バスターミナル)

3号系統(出戸バスターミナル~地下鉄住之江公園)

6号系統(あべの橋住道矢田)など

(過去の多少の起終点変更・区間変更を含める)

 

f:id:Matsuda_KOTU:20201206154620j:image[1号系統 天満橋あべの橋(黄色)]

また、当時はこのような系統と別に一般の1号系統(天満橋あべの橋)が存在しており、これはゾーンバス終了時には101号系統に改番されています。なお現在は98号系統より先はありません。(2014年3月までは存在。)

 

その他の例

その他のケースでは、廃止になった系統路線はもちろん系統番号が欠番となってしまうのですが、何年か経って別の路線同士の統合などで新路線を設定したり単に系統番号を改番した時に欠番だった番号を使用する例もあります。

  • このような例で設定された系統路線

8号系統(なんば~大阪駅前)

10号系統(天満橋~守口車庫前)

27号系統(相川駅前~井高野車庫前)

81号系統(舞洲スポーツアイランド~西九条)など

また特別な例としては44号系統忌み番号として扱われていたような時期があり、1940年6月の青バス路線継承で築港桟橋(現:天保山)~阪急阪神前(現:曽根崎警察署)~築港桟橋の路線新設の際に44番と付番されましたが、1941年に実質的に廃止になりました。しかも1974年の天保山~南港東5~南港フェリーふ頭前の路線新設まで44番の数字は一切使われなかったのです。

44号系統は2014年9月に廃止となり、再び欠番となっています。

 

●まとめ●

このように大阪シティバスの系統番号は「反時計回り」「路線新設の順」「ゾーンバス制度の絡み」など様々な決まりで構成されています。

たとえば、反時計回りで決められた系統番号の路線から見えてくることは、かなり古くからあったことが窺えます🙂

なぜ1号系統なのかも、由来がゾーンバス制度が始まった幹線1号系統から来ているということもわかりました!

この先、大阪シティバスダイヤ改正で新路線ができたりするのかもしれませんが、その際に欠番になった番号を使用するのか全く変わった決まりで系統番号を付番するのか要注目です。😅

 

では👋🏼

交通局ニュース『大阪のあし』を見てみる。

こんにちは😃

大阪メトロの駅でいつも目をやる先はOsaka Metroのパンフレット。

その中でも特に私をひきつけられるのが沿線情報紙です。最近までは『memo』というOtomo!関連の沿線情報紙が発行され、現在では読者のターゲットによって異なったそれぞれのパンフレットが並んでいました。

ちなみに、一昔前では『ノッテオリテ』という沿線情報マガジンも発行されていましたね。☺️

さて、今回の話題はそれらよりも随分前に発行されていた『大阪のあし』という広報紙を紹介します。

f:id:Matsuda_KOTU:20201120204543j:image[大阪のあし41.2と№113]

『大阪のあし』は1965年5月より大阪市交通局総務部企画課(⇒大阪のあし№35からは総務部総務課)が発行していた大阪市交通局の広報紙です。主に地下鉄駅構内に配架され、グルメなどの沿線情報というよりも交通局での出来事やお知らせをディープに紹介する内容になっています。東京であれば、帝都高速度交通営団[現:東京メトロ]が発行していた『メトロニュース』みたいなものです。

1965年5月から1ヶ月ごとに発行し、1967年1月からは原則1ヶ月ごとに発行ではあるものの、2ヶ月おきになるなど不定期に発行する形となりました。それから35年ほど発行を続け、130冊ほどの『大阪のあし』を発行したのです。

 

―時代の背景―

1960年代前半期ではモータリゼーションの発達によって普及した自動車などによる交通マヒを緩和させるために更なる輸送整備の増強を1970年の日本万国博覧会に向けて地下鉄建設工事が各所で行われ、緊急五か年計画というものが策定されていました。

しかし、地下鉄工事による資金調達が思うようにはいかず、政府やら金融機関やら約7割、縁故先から3割と行った工面をしてしのいでおり、まさに火の車。さらには1964~1965年には証券不況もあったために苦しさが滲みに滲み出た時期でありました。ここからは私見ですが、当初の『大阪のあし』を一読して分かることは、地下鉄駅の現況を見せつつもそういった苦しい局面であることを訴えて地下鉄建設に必要な資金を大阪市債による貯蓄を市民などに呼びかけていたのでしょう。

f:id:Matsuda_KOTU:20201120224128j:image[大阪市債を呼びかける一面]

これらの堅苦しいような資料しかないわけではありません。他には大阪市営地下鉄やバスなどの情勢を見ることもできます!

f:id:Matsuda_KOTU:20201121095420j:image[広告の変遷・特長を記す]

例えば、大阪市交通局が初めて広告を取り扱ったのはいつなのか?と気になれば、ここに詳しく書かれております。大正3年、市電の車内に横枠を設けて広告にしたのです。

 

あとはこんなものまで…

f:id:Matsuda_KOTU:20201121095414j:image[お役御免の市電の行く末を取り上げる]

急ピッチで進めた地下鉄工事が盛んになって1969年に堺筋線が開通すると、長らく〝交通のあし〟として勤めた市電もお役御免に。鬼籍に入るかと思えば他の土地で活躍している車両もいるということをこちらでは紹介されています。当時の市電マニアに向けて取り扱ったのかは分かりませんが、マニアックな内容までも取り上げられているのがこの〝大阪のあし〟を読むという醍醐味にもなっているかのように思います。

他には世界の地下鉄の様子を取り上げたり、最先端の交通を紹介したりと読み応えは十分あるでしょう。

f:id:Matsuda_KOTU:20201121101615j:image[未来の交通]

大阪市交通局75年史などといった主要なできごとを一つにまとめた書物もあります。しかし『大阪のあし』では、当時のことをもう少し踏み込んだようなことまでも書かれていることから、特に当時の大阪市営地下鉄大阪市営バスなどの歴史を紐解く資料としてはたいへん重宝されるはずです。

 

最後に『大阪のあし』の表題リスト完全版を紹介します。

 

大阪のあし各号 目次一覧表

f:id:Matsuda_KOTU:20210511224325j:image[表題と副題がそれぞれ記載されている]

※中には表題が確認できない物もありますので、その場合は【無題】表記した上で代わりに副題を表記します。

 

40.5 地下鉄の建設を急ぐ!グラフで見る市営交通[1965年5月発行]

40.6 地下鉄5号線いよいよ着工 地下鉄を涼しく[1965年6月発行]

40.7 梅田の地下をのぞく 39年の事業成績のあらまし[1965年7月発行]

40.8 地下鉄駅の照明暮らしの中の交通費[1965年8月発行]

40.9 市電62年のあゆみ 台風と市営交通[1965年9月発行]

40.10 地下鉄西梅田大国町 開通記念特集[1965年10月発行]

40.11 乗客1人当りの輸送原価は?時差通勤、通学にご協力を![1965年11月発行]

40.12 地下鉄建設機械のいろいろ 電車の車両検査[1965年12月発行]

41.1 世界の地下鉄 市電のワンマンカー[1966年1月発行]

41.2 市バス39年のあゆみ 料金改正について[1966年2月発行]

41.3 5年後(45年)の市営交通 定期券を買われる方に[1966年3月発行]

41.4 堺筋線いよいよ着工 昭和41年度の市営交通[1966年4月発行]

41.5 地下鉄33年のあゆみ 回数自動券売機登場[1966年5月発行]

41.6 地下鉄の空気 地下鉄建設費と利子[1966年6月発行]

41.7 地下鉄の信号機 のりものエチケット[1966年7月発行]

41.8 地下鉄のシールド工法 台風時の市営交通[1966年8月発行]

41.9 大阪の足を守って63年[1966年9月発行]

41.10 トロリーバス 40年度事業成績のあらまし[1966年10月発行]

41.11 地下鉄のレールとマクラギ「大阪のあし」と広告[1966年11月発行]

41.12 地下鉄の電気 市営交通と事故防止[1966年12月発行]

№21 地下鉄建設は急ピッチ!地下鉄の駅[1967年1月]

22 市バス創業40周年記念特集[1967年2月発行]

23 地下鉄東梅田~谷町四 開通記念特集[1967年3月発行]

24 42年度の市営交通[1967年4月発行]

f:id:Matsuda_KOTU:20211209132559j:image

25 切符でつづる地下鉄のあゆみ[1967年5月発行]

26 地下鉄の安全設備[1967年6月発行]

27 地下鉄の凍結工法[1967年8月発行]

28 地下鉄谷町四~森ノ宮開通[1967年9月発行]

29 カネになやむ地下鉄建設と経営[1967年10月発行]

30 市営交通の通信設備[1967年11月発行]

31 ATC(自動列車制御装置)[1967年12月発行]

32 地下鉄網の完成をめざして[1968年1月発行]

33 41才を迎えた市バス[1968年2月発行]

34 【無題】 地下鉄のタイル[1968年3月発行]

35 つとめを終えた市電一期線[1968年5月発行]

36 地下鉄の誕生まで[1968年6月発行]

37 地下鉄・森ノ宮~深江橋間開通[1968年7月発行]

38 市電切符のはなし[1968年9月発行]

39 廃止された市電福島・百済三宝線[1968年10月発行]

40 行き詰まった“大阪のあし” [1968年11月発行]

41 地下鉄・谷町四~天王寺開通[1968年12月発行]

42 “大阪のあし”を守るために[1969年2月発行]

43 地下鉄・野田阪神―桜川開通[1969年4月発行]

44 地下鉄網の完成近づく[1969年6月発行]

45 地下鉄・谷町九―今里開通[1969年7月発行]

46 地下鉄・今里―新深江開通[1969年9月発行]

47 地下鉄堺筋線・中央線開通[1969年12月発行]

48 万国博に活躍する地下鉄[1970年1月発行]

49 地下鉄・新大阪~江坂開通[1970年2月発行]

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50 桜川~谷町九開通―地下鉄網完成―[1970年3月発行]

51 つとめを終えたトロリーバス[1970年6月発行]

52 絶対安全を期す地下鉄工事[1970年7月発行]

53 夏休みは地下鉄沿線で[1970年8月発行]

54 ここまで進めた地下鉄の安全[1970年9月発行]

55 赤字に悩む地下鉄[1970年10月発行]

56 火の車で走る市バス[1970年12月発行]

57 海の見える地下鉄―中央線―[1971年1月発行]

58 市内交通の新ルート ―地下鉄千日前線―[1971年3月発行]

59 郊外追放のイニシアティブ 大型電気バスの開発[1971年5月発行]

60 乗車券を機械が拝見 ―玉出駅が自動改札に―[1971年5月発行]

☆大阪のあし臨時号(バス路線図等)[1971年7月発行]

61 市バスはこのように利用されています[1971年10月発行]

62 市営交通経営の現況[1971年11月発行]

63 将来地下鉄はどう延びるか[1971年11月発行]

64 さらに延びる大阪の地下鉄[1972年9月発行]

65 四つ橋線玉出住之江公園開通[1972年11月発行]

☆大阪のあし臨時号(地下鉄路線図等)[1972年12月発行]

66 変身!便利な市バスに[1973年2月発行]

67 大幹線に成長する地下鉄谷町線[1973年4月発行]

68 夏休み作戦 ディスカバー大阪[1973年7月発行]

69 定期遊覧バス試乗記[1973年8月発行]

70 市営交通70年のあゆみ[1973年10月発行]

71 延びる大阪の地下鉄[1974年4月発行]

72 地下鉄谷町線 東梅田~都島開通[1974年5月発行]

73 あなたの町に赤い色のリスのバスが走ります[1974年11月発行]

74 累積赤字975億円にも![1975年6月発行]

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75 御堂筋線に新鋭10系車両[1976年3月発行]

76 市バス交通調査量の結果[1976年9月発行]

77 延びる大阪の地下鉄[1976年12月発行]

78 地下鉄谷町線都島⇔守口開通[1977年4月発行]

79 みんなの足 地下鉄・市バスの現状[1978年2月発行]

80 のびる地下鉄 半世紀で100キロの大台に[1979年2月発行]

81 7月からコンビです 市バスと地下鉄[1979年5月発行]

82 南港への足・ニュートラム[1979年12月発行]

83 病める市民の足・地下鉄・市バス再びピンチに[1980年8月発行]

84 地下鉄谷町線天王寺八尾南開通[1980年11月発行]

85 大阪南港に新しい足 ニュートラム開通[1981年3月発行]

86 新深江南巽開通[1981年12月発行]

87 100㌔めざす大阪の地下鉄[1982年5月発行]

88 地下鉄谷町線守口⇔大日開通[1983年2月発行]

89 地下鉄50年のあゆみ[1983年5月発行]

90 創業80周年を迎えた市営交通[1983年9月発行]

91 みんなの足を守るために[1984年1月発行]

92 交流モーターの新鋭20系車両―中央線に登場[1985年1月発行]

93 100㌔へ一歩近づく大阪の地下鉄[1985年2月発行]

94 中央線深江橋~長田開通[1985年4月発行]

95 夏休みは地下鉄・市バス・ニュートラムで[1985年7月発行]

96 都市新バスシステム 4月にスタート 愛称は“グリーンエース” [1986年3月発行]

97 定期観光バス ―思い出に花をそえて50年―[1986年7月発行]

98 21世紀へ―路線網の充実[1986年10月発行]

99 乗客とともにあゆんで60年[1987年2月発行]

f:id:Matsuda_KOTU:20211209132735j:image

100 御堂筋線あびこ~なかもず開通[1987年4月発行]

101 地下鉄・バス・ニュートラム沿線 夏休み遊意義プラン[1987年8月発行]

102 もしも…に備えて 消火設備の充実や消防訓練を[1988年3月発行]

103 「都市新バスシステム・グリーンエースⅡ」が地下鉄桜川↔鶴町四丁目間でスタート[1988年4月発行]

104 みんなのあしをより快適、便利に[1988年5月発行]

105 みんなのあしをより快適、便利に新線建設・サービス改善に772億円計上[1989年3月発行]

106 10月1日から、地下鉄・ニュートラムの回数券が磁気カードに!! [1989年10月発行]

107 2月1日、市バスに回数券カード登場![1990年1月発行]

108 3月20日(火) 午後1時30分 地下鉄鶴見緑地線 開通![1990年3月15日発行]

109 夏休み・市営交通沿線情報“90年、夏、ますますOSAKAが熱くなる!!” [1990年7月発行]

110 一日乗車券が券売機で買えるようになりました。[1990年11月発行]

111 知ってお得な市バスのあれこれご紹介。『お得な市バス見つけよう!』 [1991年3月発行]

112 今年の夏も涼しさアップ!地下鉄に冷房付新造車87両導入[1991年7月発行]

113 便利になりますニュートラム ~新ダイヤスタート~ [1991年10月発行]

114 1月13日リフト付路線バス11両が3路線で営業開始[1992年1月発行]

115 “ひとにやさしいのりものづくり”をすすめています。[1992年12月発行]

116 より便利で快適に!地下鉄・市バス・ニュートラム[1993年1月発行]

117 平成5年3月4日(木)堺筋線動物園前~天下茶屋間開通! [1993年3月発行]

118 まちを駆け 時を駆け 市営交通90年のあゆみ[1993年7月発行]

119 ニュートラムの安全対策を強化[1993年12月発行]

120 西へ東へ―延びる地下鉄第7号線[1994年3月発行]

121 LET'S HAVE FUN! 夏・OSAKA・街歩きを楽しもう! [1994年7月発行]

122 大阪駅前↩なんば間でリフト付路線バスをループ運行しています。[1994年12月発行]

123 万一に備えた地下鉄・ニュートラムの災害対策[1995年3月発行]

(№124以降は形状が縦長のものに変更)

f:id:Matsuda_KOTU:20210511231256j:image

124 【無題】列車の10両編成化を進める御堂筋線(淀屋橋駅) [1996年1月発行]

125 【無題】 3月20日から「スルッとKANSAI」を実施[1996年3月発行]

126 12月11日午後1時 地下鉄長堀鶴見緑地線心斎橋~京橋間開通[1996年12月発行]

127 【無題】着々とすすむ長堀鶴見緑地線延伸工事 西長堀駅~西大橋駅間(駅名は仮称) [1997年1月発行]

128 市バス70年のあゆみ[1997年3月発行]

129 8月29日 午後1時 地下鉄長堀鶴見緑地線 大正心斎橋間 鶴見緑地門真南間 開通 [1997年8月発行]

(№130からは広報紙のタイトルが『交通局ニュース 大阪のあし』>>『交通局ニュース』に変更      ※形状の変更は無し)

130 ニュートラムのこと教えて!ドクター・ポチ[1997年12月発行]

131 回数カードを発売します[1998年1月発行]

132 レインボーネット スタート[1998年3月発行]

133 環境と人にやさしいのりもの― 市バス [1999年1月発行]

134 2階建定期観光バス にじ号コースをリニューアル! [1999年3月発行]

135 地下鉄堺筋線開通30周年! [1999年12月発行]

136(最終号) 小型ノンステップバス特集 [2000年3月発行]

 

☆2021年5月16日に表題リストが完成しました!調査にて一部、情報を提供された方々には心より感謝いたします。☆

 

では👋🏼

大阪シティバスの最長路線を探る!

こんにちは😃

前回はシティバスの最短路線について紹介しましたが、続けて今度は最長路線について探っていきたいと思います。

 

今回も3位からのランキング形式且つ往路・復路を合わせての往復の距離で挙げて行きます。

 

第3位

  • 42号系統

(大阪駅前~中島二丁目)

f:id:Matsuda_KOTU:20200930161625j:image[2014年当時の路線図・緑色で表示]

往復キロ程は25,002m(往路12,559 復路12,443)。大阪駅から御幣島・大和田を経て中島(工業団地)地区までを結ぶ路線です。地下鉄の無い西淀川区にとっては大阪駅という主要駅までを運行する交通手段として成り立ってますね。

42A号系統(大阪駅前~中島公園)もたいへん長い距離を走っていそうですね…笑

f:id:Matsuda_KOTU:20200930162048j:image[42A号系統]

ちなみに、3年ほど前までは15号系統(地下鉄住之江公園~南港南6)が3番目に長い路線だったのですが、2017年1月、かもめフェリーターミナルの廃止により、南港南4からは、かもめふ頭を経由せず、食品ふ頭前をそのまま直通する路線に切り替わったことで、距離が縮小されてしまいました。

 

第2位

  • 93号系統

(井高野車庫前~豊新4・西中島南方経由 大阪駅前)

f:id:Matsuda_KOTU:20200930163625j:image[右上の青色で示された路線]

往復キロ程は26,520m(往路13,290 復路13,230)。

井高野車庫から大阪駅前に向かう路線なのですが、起終点が同じの37号系統とは違い、93号系統は瑞光四丁目からは東淀川区役所を通り、再度37号系統と合流、長柄橋からは37号系統は南下、93号系統は西中島・十三大橋を経由して大阪駅前に至る路線です。

ただ、2014年までは十三からは歌島橋バスターミナルまでを結んでおり(また、瑞光四丁目からは上新庄経由)、往復キロ程は28,000mと2011~2013年4月までではこの路線が最長路線でした。

 

🎶~休憩~🎶

前回と同様に2位発表後では過去当時の最長路線を紹介していきます。

93C号系統

(井高野車庫前~福町)

2010年まで存在した路線です。

往復キロ程は32,710m(往路・復路とも16,355)と30キロ台。

歌島橋までは旧93号系統(井高野車庫~歌島橋バスターミナル)までの経路と同じですが、この93C号系統は歌島橋バスターミナルを経由せず、そのまま大和田1・大和田橋を抜けて福町に至る大変な路線です。

ゾーンバス時代は特93号系統として運行、井高野車庫~歌島橋は幹線、歌島橋~福町は支線区間でした。1979年11月~1980年ごろまでは幹特93号系統、それ以前は幹線93号系統として運行していました。

 

111号系統

(あべの橋豊中)

f:id:Matsuda_KOTU:20200930174534j:image[大阪駅に短縮された頃の111号系統]

 

往復キロ程は36,790m(往路18,610 復路18,180)と驚異的な長さ。申請の際は阪急バスと絡むため何度も協議を経て運行回数30回以下という条件で1960年4月に運行を開始した郊外線の嚆矢のような存在です。実際の運行回数などはどうだったのでしょうね~🙄

後に大阪駅前までに短縮した上、他の郊外線より先に廃止となりました。

 

特23号系統

(住吉公園西口~長柄橋南詰)

大昔に存在した路線です。1931年10月10日に開設されました。往復キロ程は30,186m(往路・復路とも15,093)で、長柄橋南詰から南森町・福島西通・岡崎橋・桜川2・西浜(塩草付近)・千本通7(現:天津橋)を経て住吉公園西口(浜口西付近?)にまで運行していましたが、経路変更且つ39号系統に番号変更の後、1940年6月1日の桜川2~西浜間の休止により当路線は実質的に廃止になりました。

 

それはともかく………

 

第1位

  • 73号系統

(なんば~出戸バスターミナル)

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往復キロ程は28,260m(往路・復路とも14,130)。あんまり上記の路線よりかは長いような気がしませんがこの路線が1位と知った時は驚きました。今里筋千日前通などを走っているものの単独で運行する区間も際立ちます。かつては難波から杭全までの運行でしたが、2013年4月の上六操車場閉鎖により、23号系統(出戸バスターミナル~上本町6)を集約したことで最長路線となりました。

というわけで73号系統が現在の最長路線であることが分かりました!

 

まとめ

このような長距離を走る路線について思うことは主要ターミナルから鉄道の走らない末端部までを至る路線が多く、その末端部に鉄道駅が出来てしまえば鉄道の方に利用客が流れてしまうので、次第に凋落していくんですよね。それでも例に出せば37号系統(井高野車庫前~長柄橋南詰・大阪駅前)や36号系統(地下鉄門真南大阪駅前)は未だに残り続けてるのでなかなか凄いものだと感じます。特に大阪は地下鉄を作る前に先にバスを走らせて、地下鉄が開通してからは重複するバス路線を筆頭にじわじわと削減していくスタイルなので、もし西淀川区に地下鉄が出来ていたら…と考えると、この通りのランキングにはなってないでしょうね~😨

 

では👋🏻