マツダ交通の見たまま

主に大阪シティバスの小ネタや歴史をディープに掘り下げる考察系ブログです。

【大阪シティバス路線の歴史03】45号系統

こんにちは。 今回は大阪シティバスの歴史シリーズ第3弾。 45号系統を紹介しようと思います [諸口四丁目北に停車するバス]

45号系統は都島区にある総合医療センター前から住宅地が密集する関目・古市などの細い道を通って、鶴見緑地の北西から南西へ縫うように通り最後には鶴見区の諸口地区をグルッと一周する路線です。 主要な駅などといった場所はあまり通らないため、便数はそれほど多くありません。 (https://bus.osakametro.co.jp/sales_office/library/sales_office/20230401_moriguchi.pdfより) それではどのようにしてこんな路線の形になったのか紹介していきます。

実は意外と新しい路線

これまで56号系統や34号系統を紹介してきましたが、大体は1950年代と古めな路線がほとんどであり45号系統もそれらの番号の中に入るため同時期に作られた路線かというと実は違います。(あとで後述します) 現在の45号系統のルーツである支線45号系統は新森公園前~放出東一丁目として1979年11月5日に開設されました。元々の45号系統は大阪港〜境川肥後橋大阪駅前(1950年開設)という路線でしたが1969年頃に廃止され、しばらく「45号」は空き系統となっていましたが、1979年にこの路線ができた事で改めてこの番号が使われることになりました。

この当時から既に主要な駅などは通らず住宅などを通る地方系の路線となっていますね。 また「榎本小学校前」と、後で出る「放出大橋」は以前の28号系統(天満橋〜放出駅前・徳庵橋)、今津北三丁目は71号系統(西諸口【現:鶴見区役所前】〜緑一丁目)、今津橋はその両系統が通っていましたが1979年7月までには廃止になっており、同年11月の45号系統開設によって停留所が復活したことになります。 21号系統の東中浜公園バス停みたいなものですね。

1984年4月に特45号系統となり、起点を新森公園前より古市車庫前へと延長経路変更、放出地区でも経路変更が行われ、榎本小学校前方面には行かずに真逆の寝屋川大橋方面から放出住宅へと一周する経路になりました。この時に放出大橋停留所も復活することになります。 なお、古市車庫前〜新森二丁目は幹線区間、新森二丁目〜放出住宅前は支線区間でした。

1988年には途中区間の経路変更が行われ、鶴見商業高校前と鶴見緑地西停留所が新たに開設され緑四丁目へ北上する経路になります。 これにより緑中学校前は廃止になりました。 〈長吉長原東三丁目おりばバス停で使われている当時の鶴見商業高校前のバス停(現在残っているかは不明)〉 1994年3月31日の路線再編によって一部区間と重複していた支線26号系統(地下鉄都島〜新森七丁目東)と統合することとなり、特45号系統から再び支線45号系統として運行されます。(※)

また放出方面には行くことは無くなり、既に作られていた横堤バスターミナルに乗り入れすることになります。

※当初の支線45号系統は横堤バスターミナル~地下鉄都島という路線で、後に地下鉄都島から総合医療センター前に延伸されたという情報がありますが、こちらでは発見する事ができなかったため敢えて記述していません。もしご存知の方がいらっしゃいましたら、ご教示いただけると幸いです。

2002年のゾーンバス制度終了に伴って経路変更は行わないまま系統番号を支線45号系統から45号系統に変更されました。 2007年に花博記念公園北口停留所が総合医療センター前行きのみに開設されます。 2013年4月1日には横堤バスターミナルが廃止になり、構内に乗り入れられなくなったことで鶴見通沿いに「地下鉄横堤」と改称した上で移設。 2011年に廃止になった鶴見バス停〈北側〉(赤バス鶴見ループ〈イオンモール向かいに存在〉)を転用する形で復活、鶴見緑地公園前・鶴見区役所前の片側を廃止する形でループ運行となりました。 (当時の方向幕) しかし、この形も1年間しか存在せず2014年4月1日のダイヤ改正で経路変更となり、2013年に廃止された赤バスの路線である鶴見ループの今津諸口橋、諸口二丁目、諸口四丁目、諸口四丁目北を復活させる形でループ運行となりました。 これまで横堤バスターミナルがあったことで、今津橋方面までには行きませんでしたが、約20年ぶりに復活というわけです。 また、この際に総合医療センター前〜花博記念公園北口間の区間便として45A号系統が新設されています。

実際、他の路線とは違って歴史はまだ浅いですが、幾度の経路変更があるのは面白いと思い紹介させていただきました。

では👋

大阪市営バス懐かしの終点 布施三ノ瀬

お久しぶりです。 今回は大阪市営バスで2013年まで存在した終点。「布施三ノ瀬(ふせさんのせ)」について紹介していきたいと思います。

なぜこんな場所に?

Google マップ

布施三ノ瀬は現在12号系統が通る小路東五丁目バス停から東に行くと大阪府道172号線と交差し、そこから左に向けば小路東六丁目バス停がありますが、曲がらずそのまま直進し1つめの信号の手前に布施三ノ瀬のバス停がありました。 2013年3月末に廃止となっており、約10年経った今では跡地らしきものは見当たりません。 ところで、なぜこんな場所に終点があったのでしょうか?

[支所時代の布施三ノ瀬操車場]

実は布施三ノ瀬のバス停から南に行くと「布施三ノ瀬操車場」というのがありました。

簡単に言えば車庫ですね。 この操車場の存在が「布施三ノ瀬」が終点だったルーツになっています。

布施三ノ瀬の歴史をひもとく・・・

はじめて布施三ノ瀬にバス路線が来たのは今から100年近く前の1928年8月31日までにさかのぼります。 今里から東に進み岸田堂へ、そこから南下し八尾方面に向かう東大阪乗合自動車というバス会社が存在していました。 その後、後に大阪市営バスとのライバルであった大阪乗合自動車(通称:青バス)1932年5月に東大阪乗合自動車の路線を譲受しました。 その当時、「布施三ノ瀬」のバス停があったかどうかは不明ですが、1936年1月当時には布施三ノ瀬の車庫(当時は大阪乗合自動車 布施営業所→後の操車場)と、布施三ノ瀬のバス停が存在していたようです。 1940年6月1日に大阪乗合自動車が大阪市営バスに事業統合されると、布施営業所は大阪市営バスの営業所として引き継がれ、布施三ノ瀬停留所もこの時に大阪市営バスのバス停となりました。 また、当時の布施営業所は後の布施三ノ瀬操車場よりも建物の南側や道路の向かい側にも敷地が存在しており、約2倍の広さでした。

〈青バス統合間もない頃の布施三ノ瀬周辺の路線※1945年8月までには全路線が休止(実質上の廃止)〉

戦後は布施営業所が一度閉鎖したもののすぐに再開し、1957年9月に生野営業所へ移転するまで使われていました。 生野営業所へ移管されたあとは布施営業所は廃止となり、布施三ノ瀬操車場として転身します。あくまで操車場だからなのか、この頃には敷地が約半分になったようです。 当時の布施三ノ瀬発着路線は1979年まで20号系統と21号系統が乗り入れていました。 〈1976年当時の路線図〉

ゾーンバス制度による路線変更と布施支所

ゾーンバス制度が始まったことで20号系統は廃止し、21号系統は幹特21号系統(特21号系統に番号変更した後、1984年に廃止)になりました。 〈1981年当時の路線図〉

1980年7月には特12号系統(あべの橋~布施三ノ瀬)が新設し、これが後に現在の12号系統の形になります。 [特12号系統の方向幕]

1981年3月には布施から移転された生野営業所が閉鎖になったことで、布施三ノ瀬操車場にも動きがあり、翌月の4月13日には新たに東成営業所布施支所として開設されます。 しかし、1987年5月31日に閉所となり再び布施三ノ瀬操車場に戻りました。

バス停、操車場もろとも廃止へ…

〈1994年当時の路線図〉 〈2008年当時の路線図〉 〈2013年4月当時の路線図〉

布施支所が閉所した後も布施三ノ瀬操車場として機能し、布施三ノ瀬発着路線も晩年には12号系統のみとなっていました。 2013年4月1日のダイヤ改正で長きにわたって存在してきた布施三ノ瀬操車場は廃止、布施三ノ瀬停留所も廃止になりました。

布施三ノ瀬が終点だったのは事業者をまたいで存在した操車場の存在が大きかったのかもしれませんね。

では👋

豊中の街を走った大阪市営バス

こんにちは😃 大阪市営バスがかつて豊中市に乗り入れていたことはご存知ですか? Twitterなどでたまにですが「豊中まで市バスが走っていた」という事を話されているのを見かけます。 今回は市バスが豊中に乗り入れていた路線を紹介していこうと思います。

豊中 [起点の大阪駅前を出発する市バス(資料提供:市場氏先輩F氏)]

豊中線は1960年4月20日に開設された路線で、あべの橋より、なんば、大阪駅の主要ターミナルを回って淀川・神崎川を超えて豊中駅までに至る路線です。系統番号は111号系統として運行していました。 [開業当時の経路]

主要ターミナルの乗り場

あべの橋(豊中方)「アポロ座前(現:アポロビル前)」

・なんば(豊中方)「新歌舞伎座前(現:ホテルロイヤルクラシック大阪前)」

・なんば(あべの橋方)「南街会館前(現:なんばマルイ前)」

大阪駅前(豊中方)「駅東口(現:34号系統乗り場付近)」

大阪駅前(あべの橋方)「阪急百貨店前(34号系統乗り場付近の向かい側)」

大阪駅前に至ってはロータリーには入らず国道176号線を沿うだけになっています。 また、豊中停留所の乗り場・降り場ですが豊中駅バスロータリーには入ることなく少し離れた豊中本町南交差点の東側にありました。 ここから先の右側に豊中駅東第2駐車場がありますがそちらが市バスの転回場だったようです。 [豊中駅付近を走る市バス(大阪のあしより)]

路線の変遷

そもそも豊中線が出来た経緯としては、豊中市から大阪市内への交通手段は阪急宝塚線と阪急バスのみであり、ラッシュ時においては相当混雑するため他の交通手段を設置して改善を成したかった豊中市大阪市に対して大阪市営バス豊中方面への延長要請があったことが始まりでした。大阪市は1953年11月に豊中市への路線延長の免許申請を行い、後に聴聞会・公聴会が開かれました。 しかし、経路が重複する阪急バス側の反発と豊中バス(阪急とは全く無関係の新規会社)の申請があったことで協議が難航しました。結局は豊中バスの申請は棄却し、阪急バスの要望事項(市バスの運行本数制限・阪急バス梅田乗り入れ本数を30本増加)を合意する形で、豊中まで1日30回以下での制限付きの運行が実現しました。 郊外路線(他区間系統)だということで、市内線(当時は区間制のため111号系統の市内線は大阪駅前停留所を境に1区は15円、2区は30円)とは別に郊外線料金というのが取られるようになり、新三国橋〜服部または服部〜豊中は10円、菰江〜豊中は15円でした。

路線の短縮、そして廃止へ… 1969年末頃には111号系統の大阪駅前〜あべの橋間が廃止され、豊中大阪駅前に短縮されました。阪急百貨店側にあった大阪駅前乗り場もこの際に廃止されました。 1972年になると十三西之町(現:淀川警察署前)付近の循環経路が新設されたことにより、39号系統(野田阪神前〜新高南通[後に新高一丁目に改称])と共に経路変更されました。

1973年9月、1974年1月には111号系統の減便を実施。 また1975年1月の経路変更では、111号系統が平日のみの運行となり、休日では新たに臨111号系統として大阪駅前(阪急三番街)〜豊中として運行されました。 しかし、2年後の1977年4月10日の系統再編成により111、臨111号系統と共に廃止になりました。 実際に1971年と1976年に取られた交通量調査では1976年の乗車人員は1971年の約1/6にまで落ち込んでいた事から同区間を走る阪急バスとの競合に屈することになったのでしょう。 [大阪市営バス豊中線と競合した阪急バス阪北線]

しかし、阪急バスも2020年10月5日のダイヤ改正により梅田〜豊中箕面を結んでいた13系統・63系統が廃止され、梅田(大阪駅)から直接には豊中へ行けなくなったことで豊中線に関連した路線も全て消滅してしまいました。 大阪市営バス豊中線はこのような背景があったのです。

伊丹線 続いては伊丹線です。 野田阪神前から国道2号線西淀川区歌島橋交差点まで北上し、大阪府道10号線より加島、大豊橋を経て名神高速道路の豊中IC付近までに至る路線です。1965年11月13日に開設された路線で系統番号は112号系統でした。 しかし、路線名が伊丹線であるにも関わらず終端は豊中市の南側とあって全く「伊丹」と関係が無いのに…と疑問を感じませんか? 実は豊中インターチェンジより先に延長する予定で命名されたのです。

路線の変遷 [今はなき日本急行バスの路線図]

伊丹線が出来た背景にあるのは1965年7月1日に名神高速道路が全通したことに伴って日本急行バスや国鉄バスが運行する名神ハイウェイバス神戸系統の「名神豊中」停留所の乗降客が増加したことで、名神豊中(豊中IC)から大阪市内へのアクセス路線設置の要望がありました。 そこで大阪市は歌島橋より加島・豊中インターチェンジを経由し、将来的には大阪空港まで延長する路線の計画を立てました。つまり伊丹線の「伊丹」はこの最終延伸地の大阪空港を指していたのです。伊丹市にまで乗り入れていれば大阪市営バス史上初の県外をまたぐ路線でありましたが、そちらは実現することはありませんでした。 また、大阪市営バス伊丹線を開設するにあたって阪急バス自体も元々は千舟橋(大阪シティバス大和田三丁目北バス停付近)から加島に至る路線(千舟線)を持っており、府道10号線は経由せずに狭隘な道を経由していました。 そこで、大阪市営バス伊丹線開設を申請した際に阪急バス千舟線の府道10号線への経路変更と加島以北の系統新設を市バス側が認可することで伊丹線(野田阪神前〜豊中インターチェンジ)の開設が実現したのでした。 豊中インターチェンジの乗り場の正確な場所は不明ですが、阪急バスにもかつては「名神豊中」バス停がインターチェンジ脇に存在していたのでその付近かと推測します。 また、こちらも豊中線同様に郊外線料金が設定されていました。(開業当時の加島町〜豊中インターチェンジは20円)

豊中市乗り入れ撤退とその後

1974年より日本急行バスをはじめ、国鉄バスなどの名神ハイウェイバスの神戸方面の路線休止が相次ぎ乗降客数が激減したのか1978年7月1日の系統再編成により、112号系統は豊中インターチェンジ〜加島を廃止し、加島からは神崎橋を終着とする経路に変更されました。豊中市への乗り入れはこの112号系統の撤退をもって無くなりました。

1979年7月22日の系統再編成では、ゾーンバス制度(幹線・支線路線の乗り継ぎ制度)が出来たことで112号系統は幹線112号系統として運行することになります。 1981年3月3日に歌島橋バスターミナルが開設された時には幹線112号系統は支線94号系統に番号変更され、歌島橋バスターミナル神崎橋に短縮・変更されました。 そして、1997年3月8日にJR東西線加島駅が開業した際のダイヤ改正で支線94号系統は廃止となりました。 阪急バスに至っても加島駅が出来たことにより千舟線の加島〜千舟橋間が廃止され終点を加島駅前に変更。その後は阪急岡町〜加島駅前として運行していたものの、2014年には千舟線自体が廃止となり、大阪市営バス伊丹線と関連する路線は今はありません。 つまりは豊中線、伊丹線はどちらも阪急バスとの深い関係があったのでした。

豊中線や伊丹線はそれぞれの需要があって出来た路線であり、阪急バスとの関係を持ちながら運行してきました。実際に豊中線では、「あべの橋豊中」と現在の最長路線である73号系統(なんば〜出戸バスターミナル)を大きく上回る超ロングラン路線でもありました。伊丹線に至っても大阪空港まで延長していれば市営バス初の県外をまたぐ路線でもあったわけで両者とも過去を見るととても魅力的な路線だったと感じます。

では👋

【大阪シティバス路線の歴史02】34号系統

こんにちは。久しぶりの投稿になります。 さて、今回は大阪シティバス路線の歴史、第2回目になります。 それもシティバス屈指のドル箱路線である34号系統の歴史を見ていこうと思います。

34号系統とは?

[34号系統の運行経路図] 時刻表検索|Osaka Metro

34号系統は大阪駅前から豊崎を経由して天神橋八丁目、そこから毛馬橋で旧淀川を越えて北上し、旭区北部を突き抜けながら守口市にある守口車庫までに至る路線です。 大阪駅から守口方面に向かうのですから地下鉄谷町線の東梅田~太子橋今市(区間)を並行して走るのかと思えば、実は谷町線の走る区間よりも北の経路を走っていることになりますね。 またこのバス路線は一番売上高が高い(いわゆるドル箱)路線として存在し、朝ラッシュであれば8時台の守口車庫行きは27本、7時台の大阪駅前行きは29本と約2分ヘッドで運行するバス路線です。もはやバスのダンゴ運転ですね笑

34号系統の歴史

それでは本題に入っていきます。 34号系統は1953年12月15日に開設された路線です。 とはいえ、実は1940年には既に34号系統が存在しており、経路が天神橋筋六丁目~なんば経由元町二丁目(1941年9月1日になんば~元町二丁目間の区間休止に伴い、なんばに短縮)とあるため本当のルーツはこの辺りになるのですが資料が少なすぎるため割愛させていただきます。🙇‍♂️

また1945年の終戦時にはこの34号系統は走っておらず休止になっていたため1953年に開設された際には新設というよりも〝路線が復活した〟という認識で見ていいのかと思います。 さて、話は戻しますが戦後に開設された34号系統は、現在の経路と比べてみてどうでしょう? 全くもって今の経路とは別物ですよね笑

当時は天神橋筋六丁目から扇町付近を通り、曽根崎警察署の辺りから下へと御堂筋を沿って難波に至る路線なんです。ちなみにこの路線は寄り道をして大阪駅前のターミナルに入ることはありません。終点の難波は新歌舞伎座前に乗り場があり、起点の天神橋筋六丁目には天六操車場(→現在のOsaka Metro 天神橋筋六丁目ビル付近)が存在していたのでそこから出ていたのだと推測します。

1956年に入ると34号系統は太子橋(現:地下鉄太子橋今市)まで延長されます。 補足ですが、阪急阪神前~太子橋間では1953年に開設した58号系統(大阪駅前~太子橋)と路線が重複するため、34号系統が太子橋まで延長した際には並行して走っていましたが翌年には廃止になっています。58号系統はわずか3年と短命な路線でした。

1969年4月には特34号系統(大阪駅前~守口車庫前) が開設されます。※1

これは大阪市電の守口~阪急東口間が1969年3月31日をもって廃止になることに伴い、代替として作られた路線です。現在の34号系統と結構近いような感じがしますよね~😯

またこの時の大阪駅前行きは、またしても駅前ターミナルには入ることなく都島通沿いにあるOSビル下にあった「阪急東口」バス停が終点でした。 しかも阪急東口が終点であったのに対して、行先方向幕は大阪駅前で設定されていたようです。

※1:一時期は急行運転も行っていた。

翌年1月には御堂筋が一方通行化されてことに伴って34号系統の阪急阪神前(大阪駅前を経て曽根崎警察署前に改称)~なんば間は行けなくなり、大阪駅前(現:曽根崎警察署前)~太子橋と短縮されました。さらに特34と合わせて、天六大阪駅前間はループ運行という形になりました。 [1974年当時の大阪駅前のりば(赤線で表しているのは34・特34号系統の順路)]

当時の地図を見てみると富国生命ビルの上隣のバス停が阪急東口、下隣のバス停が大阪駅前(現:曽根崎警察署前)になります。このようにターミナルには入らず駅前付近をぐるっと回っていたのです。

補足ですが、同じく1970年1月に臨34号系統(なんば~大阪駅前)、臨34A号系統(なんば~天神橋筋六丁目)、臨34B号系統(太子橋~大阪駅前)が廃止(新)臨特34号系統(太子橋~大阪駅前)が開設されました。※2

また、1974年当時の区間便では、(新)臨34号系統(大阪駅前~太子橋[1977年4月廃止])がありました。

※2: 1974年の系統一覧には臨特34号系統が「大阪駅前~守口車庫前」とあるので70年~73年にかけて太子橋より延長している。

1977年4月には天神橋六丁目~(中崎町経由)大阪駅前間が廃止となり、これに伴って34号系統が廃止されます。また、特34号系統も上図のようにループ運行を辞めて天神橋六丁目~扇町経由大阪駅前に変更しました。

翌1978年当時の区間便は、臨34A(都島本通三丁目~守口車庫前)、臨特34(天神橋六丁目~守口車庫前)がありました。(⇒どちらも1979年までに廃止)

1979年7月に入るとゾーンバスシステムが導入され、特34号系統が幹34号系統として系統変更が行われました。また、この際に経路変更が行われ、ほぼ今の形となりました。 [1982年当時の大阪駅前のりば]

[1983年当時の大阪駅前のりば]

元々の大阪駅前のりばはこのような場所にありましたが、(旧)大阪駅前バスターミナルが1983年5月1日に開設されたことにより、のりばが整備されて3番のりばに発着するようになりました。また、1997年に34号系統がリフト付きバス運行路線になった際には3番から4番のりばに変更されました。(この際に従来の4番のりばに発着していた幹57号系統は3番のりばへ変更。いわゆる2路線同士での入れ替えがあった。)

2002年にゾーンバスシステムが廃止となり幹線34号系統が34号系統になりました。 その際の経路変更はありませんでした。

[2008年当時の大阪駅前のりば] 2008年になってから再度乗り場が変更され、今のような乗り場とほぼ近い2番のりばに移設されました。 [当時の乗り場]

[奥に見えるバスシェルターが34号系統の旧乗り場]

[2018年当時の大阪駅前のりば]

2016年10月には大阪駅前のバスターミナルが再度リニューアルされたことにより乗り場が変更、もともと3番乗り場だった付近の場所に新たに9番のりばとして34号系統専用ののりばが出来ました。

そして、現在に至ります。


いかがでしたか。 当初の34号系統は難波から天六方面へと行くのが始まりだったんですね。 それに、その後の難波~太子橋を運行するとなるとかなりロングランな路線ではないでしょうか笑 それ以降も変更を何回かしながら今のような路線になったのですね~😌

では👋

さようなら京阪バス香里団地支所

こんにちは😃 京阪バス香里団地支所(営業所) は2022年3月31日をもって閉所になります。 (https://www.keihanbus.jp/news/sysimg/01051/link_hM68M.pdf)

ということで、閉所になる前に行ってきました。

香里団地支所とは?

香里団地支所は枚方市香里ヶ丘三丁目にある交野営業所の支所で藤田川(とうだがわ)交差点の角にあります。最寄りのバス停も「藤田川」になります。一応、支所という立ち位置ではあるものの「営業所」と呼ばれる場合もあります。

香里団地支所が開設されたのは1961年9月26日の事で、香里団地よりも前に設置されました。(香里団地竣工は1962年)その頃には既に香里団地付近の路線はある程度開業しており、(1958年12月に山之上~茄子作・香里ヶ丘~藤田川など) 1960年12月30日には京阪バスにとっては初のワンマン運行が香里団地線(詳しい経路は不明)で行われていました。つまりは香里団地のバス路線整備と全く同時期に支所が設置された事では無かったことが分かります。さらに、この当時は交野営業所は未開設で枚方営業所の支所となっていたようです。

実際に行ってみると・・・

f:id:Matsuda_KOTU:20220331002102j:plain 見た感じだと小さい施設で、敷地に入るとすぐに窓口があります。また、写真にはうつってませんが、施設の右側にもバスの出入口がありました。

f:id:Matsuda_KOTU:20220331002542j:plain 門には香里団地支所と書かれた木製の看板が吊り下げられていました。開設当時のものでしょうか?かなり古そうです。

f:id:Matsuda_KOTU:20220331002919j:plain 京阪バスの看板、電照式なのでしょうか? f:id:Matsuda_KOTU:20220331003538j:plain 施設の裏に行ってみました。留まっているバスの後ろには川なのですが、柵などは無いのですね。


と、無くなる前に見に行ってきました。 4月からは交野営業所が香里団地支所(営業所)の路線を担当し、約60年半という長い歴史にようやく幕を閉じます。 本当にお疲れ様でした。

では👋

大阪市営バスのあべの橋~平野は実際にどこを経由して走っていたのか?

こんにちは😃 1927年2月26日は大阪シティバスの前身である大阪市営バスが開業した日です。 初めて大阪市営バスが走った区間はというと『あべの橋~平野』なのですが、実際にどの辺りを走っていたのでしょう? f:id:Matsuda_KOTU:20220323212951j:plain <平野街道を走る市バス>

Q.どこを走っていたのか?

f:id:Matsuda_KOTU:20220323213743j:plain<あべの橋~平野開業時の路線図>

あべの橋~平野の経路はまず、天王寺駅から北にある玉造筋を入り、寺田町交差点より国道25号線へ入って杭全を経てJR平野駅からすぐ南にある大念佛寺北交差点付近までが経路となっていました。f:id:Matsuda_KOTU:20220323215129j:plain [https://bus.osakametro.co.jp/sales_office/library/sales_office/19.4.1sumiyosi_1.pdfより]

もっと分かりやすいように、大阪シティバスの路線図を照らし合わせてみると、あべの橋から30号系統(水色)で杭全まで行ってそこから1号系統(薄紫色)でJR平野駅筋停留所までということになります。ちなみに終点の平野バス停は今のJR平野駅筋バス停付近にありました。また当時は約1ヶ月程だけ平野に車庫が存在していたそうです。 よく見てみると、南河堀町、寺田町、源ヶ橋、百済、平野西口に至っては開業時の名前からそのままなんですね。🤭

当初は梅田~あべの橋間を走らせる予定だった

実は1922年頃に市営バスを走らせる計画があり、当時の市長であった池上四郎氏によって路面電車の混雑解消のための補助機関として大型バス30両で梅田~あべの橋を運行することを大阪府に打診したところ、大阪市内のバスに対しての監督方針が無いとか等で許可が降りず一時中止になりました。しかし、翌年8月に今度は民間の大阪乗合自動車(青バス)が大阪市内におけるバス運行の出願をしたところ、許可が降りて1924年7月2日に梅田~あべの橋間<堺筋経由>が開業しました。これが後に市バスと青バスが色んな路線でバチバチに火花を散らすことになります。

9号系統のルーツは市バス開業路線

では、あべの橋~平野間は今ではどの路線に継承されているのかというと、これは9号系統になります。しかし… f:id:Matsuda_KOTU:20220323233236j:plain 出戸バスターミナルから平野区役所前を結ぶ青色の路線が9号系統になります。現在はあべの橋どころか杭全すら行かない全く別物の路線となっています。これは2012年のダイヤ改正によって大きく変わってしまったのが原因です。では2012年以前の9号系統が載った路線図を見てみると…

f:id:Matsuda_KOTU:20220323234005j:plain<旧 9号系統 あべの橋出戸バスターミナル(紫色で表示)>

まさに元々の開業路線と同じ経路を走っていることが分かりますね! こうして開業路線のルーツである9号系統は形を大きく変えながら今でも運行されているのです。

では👋

かつて使われた大阪市交通局のキャラクター

こんにちは😃 今回は小ネタ的なものです。

Osaka Metroにて使用されているマスコットといえば、『にゃんばろう』という交通局の制服に扮した猫のキャラクターです。これは前身の大阪市交通局が2011年に採用したキャラクターでありました。交通局が民営化されることに合わせて一時お役御免となりましたが、しばらくしてOsaka Metroの制服にお化粧直しされた形で復活し現在でも活動しています。https://subway.osakametro.co.jp/news/news_release/20200615_nyambarou_o_sagase.php

2020年にはOsaka PointというICカード連携型ポイントサービスが開始され、そこにもキャラクター(オポたん・かどのすけ)というキャラクターが使われています。https://www.osaka-point.jp/OMS2/index_iccard202104.html

Osaka Metro関連のキャラクターではこの辺りが挙げられますが、前身の大阪市交通局では『にゃんばろう』の他にどういうものがあったのかを紹介していきます。

レインボーファミリー

f:id:Matsuda_KOTU:20220209103412j:plain 2003年~2011年に活躍したキャラクターです。つまり、にゃんばろうの前身ですね。 左からバスママ(市バス)、アカバスチャン(赤バス)、チカパパ(地下鉄)、トラムクン(ニュートラム)という名前がついていました。 このアカバスチャンのモデルになった赤バスは2002年より、2年前から一部地域で試験運行をしていた100円バスをエリア拡大させる形で本格的に運行させたコミュニティバスでしたが、レインボーファミリーが消滅して約2年で廃止されました。

モールボードのモグラ

f:id:Matsuda_KOTU:20220209110234j:plain 1990年4月より新大阪・梅田・なんば等に設置された地下鉄乗客案内情報システム、モールボードが設置されたことにより使用されていたキャラクターです。ただ、名前が付いていたのかは確認ができていません。このモグラのビジュアルは上部の他、ビデオカメラを持った姿の物もありました。現在はキャラクターどころか、モールボードすら存在しません。

ゾーンバスのリス

f:id:Matsuda_KOTU:20220209111458j:plain 1974年11月28日に運行開始されたゾーンバスの標識として使われたリスのキャラクターです。これも名前が付いていたのか確認できていません。主にバス停留所やバスのヘッドマークに使われていましたが、ヘッドマークについては1990年に開催される花博PRのために『花ずきんちゃん』が使用されはじめた(従来のリスのヘッドマークを上塗りした)ため、1990年代半ばにはあまり見られなくなりました。

ゾーンバスについてはこちらを参照↓

【前編】https://matsuda-kotu.hatenablog.com/entry/2021/08/03/145238

【後編】https://matsuda-kotu.hatenablog.com/entry/2021/08/05/151206

おしどり

f:id:Matsuda_KOTU:20220209113119j:plain 1979年7月に行われた大阪市営バスの路線再編成に伴ってバス・地下鉄乗継割引制度が開始されたことによって登場したキャラクターです。『コンビです。市バスと地下鉄』というフレーズでおしどり夫婦を模した『オシドリ』が使われていました。これも名前が存在していたのかは不明ですが、当時の共通全線定期券では、『おしどりパス』という名称で発売されていました。 バス路線図の他に地下鉄・バス乗継指定停留所、地下鉄の一部の券売機にも使用されていましたが、いつの間にか使われなくなりました。※バス路線図も1991年までには消滅。


では👋